タイトル_読み物

エッセイ03:「母への合図と最期の瞬間 〜胃癌と向き合った父の記録〜」の見出し画像
母への合図と 最期の瞬間
〜胃癌と向き合った父の記録〜

2011.7.10 わたしの役割

父が胃癌だと宣告された。

昨日、実家の近くに住んでいる姉から電話があったのだが、細かい検査はすべてこれからで、手術や治療のスケジュールすら決まっていないとのことだった。

電話口で、姉は 「わたしたち兄弟は親との関わり方がそれぞれ違うんだから、役割がそれぞれ違うんだよ。のりちゃんにはのりちゃんの役割があるから」 と言った。

その意味を、昨日からずっと考えていて、まだ答えが見つからない。

看護士であり、実家の近くに住んでいる姉。 8歳下で頼りないけれど、長男の弟。 そして、親に迷惑をかけながら自分勝手に生きてきた わたし。

わたしにできることは、なんだろう。

わたしの役割とは。

2011.8.19 晩年

父のその後。

父は精密検査を受け、胃癌と確定。8月の初めに胃切除術を受けて、1週間ほど前、無事退院。自宅療養となった。

癌の場所は胃の出口「幽門」にあり、胃を下から2/3ほど切除、十二指腸も少し切除したため、胃と十二指腸をつなぐことができず、小腸とつないだらしい。(そのあたり、聞いたけどちょっと曖昧)

自宅療養となってからは、おかゆなどの流動食で、一度にたくさん食べられないため、6回食からスタート。だんだんと固形に移行していくようだ。「忙しくて出かけられないわよ」と母がもらしていたが、手術前の気を張りつめていた様子から一転、母の安心が見てとれて良かった。

切除した検体検査の結果は悪いものではなかったようで、がん治療の薬投与などはなく、定期検診で様子を見るらしい。

ただ、手術痕は抜糸がまだなのでかなり痛い様子。歩くのもゆっくりゆっくり。でも、68歳の手術後とは思えないほど、自分でなんでもできてしまうと母は驚いていた。

頑張りやの父らしいなと、わたしは思った。

1か月半前、「胃癌の可能性大」と医者に言われたときに、父がまずやったことは仕事のことだった。次の日には会社に行って、癌のことを伝え、部下に取り急ぎの引き継ぎをした。

そして、すぐにノートパソコンを買いに行き、病院でもメールでのやりとりができるように手配した。病室はもちろん個室。母も「おとうさんは貯め込んでるから、お金はあるのよ。好きなようにやらせるわ」と。

予定通り、入院中も仕事をして、自宅に戻ってからも家で仕事をしているようだ。会社通いへと復帰できるかどうかは、今後の経過次第なのでまだわからないけれど、仕事が生き甲斐のようなものだった父のことだから、復帰するような気がする。

死はだんだんと近づいてくる。父は、若いときに晩年をどうやって過ごそうと思っていたのだろうと考える。

年老いて死ぬということは、何かしらの病気を抱え、戦っていかなければならないことをも意味する。

病気をせず老衰で亡くなるひとも、寝たきりとまではいかなくても手足は思うように動かせず、体の自由を奪われたりして、まわりの人に助けられながら亡くなっていくのだろう。

自分が納得のいくように悔いのないように生きられて苦しまずに死ねたら、幸せなんだろうなぁと思う。

寝たきりの祖父の介護を文句を言いながらもずっと頑張っていた祖母は、祖父が亡くなってからすぐにボケてしまった。看護士の姉が甥っ子とともに祖母と同居し、ボケた祖母とバトルしながらも向き合い、脳出血を何度も起こして寝たきりになった祖母の介護を2年ほど続けた。祖母は、最期は肺炎をこじらせて逝ってしまった。

年老いて、意図せず変わっていってしまうこと。それを父も、母も、姉も目の当たりにしている。

わたしは遠くに住んでいることもあって、何も手伝うことはできなかったが、大好きな祖母が、同じ笑顔を振りまきながらもボケていっていることにショックを受けたこと、痩せ細りベッドにぐでっと寝たままの姿を見て、大好きな関西弁で屈託のない笑顔を見せることはもうないんだなと覚悟したこと、そのときのなんともいえない、戻りたくてもどうしようもないことがあるという、やりきれない気持ちを強く覚えている。

父は晩年をどう過ごすだろうか。

やり残したことはないんだろうか。

自分の人生に納得はいっているんだろうか。

わたしはまだ人生の半分くらいまでしか到達していない。子どもが自立して肩の荷が下りたら、わたしに何が残るだろうか。いま「やりたいのに時間がない!」と思っていることはたくさんあるけれど、そのときにできる気力と体があるだろうか、自信がない。

いまでも上手に生きることができなくて後悔ばかりなのに、わたしは晩年を迎えたときに、何を思うだろう。後悔に押しつぶされそうになって、苦しくて早く死にたいと思うだろうか。

やらなくちゃいけないこと、伝えなくちゃいけないことは、たくさんあるのに。

2014.3.11 末期

傲慢な人間に「あなたは傲慢だ」と言うことは、わたしの傲慢だろうか。

気持ちと頭の中がぐちゃぐちゃで、昨日から整理しようと頑張っているけれど、頭の中を巡るのは、批判の言葉ばかり。何を言っても違った捉え方をされそうで、何が言いたいのかわからなくなる。

だけど、ひとつだけ、わたしの中ではっきりしている気持ちがある。娘と息子を、父にはもう会わせられないということだ。

末期癌。

体を蝕み、複数の臓器の機能を奪っていくだけではない。奪うのは、感情のコントロールさえも。

わたしが一番、家族の中では客観的に父を見ているのかもしれない。「病気だから、仕方がない」と割り切って従っていられる母や姉のようにはできないままでいる。

父が、ただの頑固で傲慢な老人にしか見えない。変わってしまった父のひどい態度を許せない自分が情けなくて涙が出る。

周りの人に嫌な思いをさせて、嫌われて、そのことに気がつかずに死んでいって、良い死に方と言えるだろうか。

葬式の時に思い出されるのが傲慢な態度と暴言だけだったら、悲しいじゃないか。死ぬ直前の数ヶ月の印象が強烈すぎて、今までの強く前向きで凛とした父の印象は跡形もなく消え去ってしまうなんて、やりきれないじゃないか。

ひどい言い方だけれど、できることなら尊敬できる父のままでこの世を去っていってほしかった。

「おまえは何もわかっていない」と鼻で笑い、お世話になっている母や姉も、がんセンターで何万という症例を見てきた医師でさえも見下し、「俺は71歳だぞ? 仕事を長年やってきて、物事を整理する能力に長けているんだ」と経験と知識をひけらかし、「なぜ俺の話を聞かず、言うとおりにしないんだ!」と押し付ける父。

わたしがどんな人生を送ってきたか、ずっと見てきたわけじゃないのに、わたしの何がわかるというの?

わたしの人生でどんな選択をするかはわたしが決めることだよ。

お父さん、あなたは神様じゃない。

経験や知識も、もう必要ない。

ただの末期癌患者なんだよ。

2015.9.26 最期の時

ずっとブログを書けずにいた。自分が書いた前の記事を読むと、涙が止まらなかった。新しい記事を書こうとしても、先へ進めなかった。

父が亡くなって、1年と5か月が過ぎようとしている。

父は癌が末期であると告知されてから、自分が死んだあとの様々な手続きを表にまとめ、やらなければいけないこと、連絡しなければならない場所、すべてを母と姉に託した。

それでもお金のことはギリギリまで心配をしていて、亡くなる10日前には筆談で「○○の株を売れ」と指示していた。その頃にはもう自分で体を動かすこともできず、声も出せなくなり、ペンを握るのもやっとだった。記憶も曖昧で、「株は大丈夫。もう売ったよ」と何度言っても、数時間後に同じことを言ってきた。

もう手の施しようがなくなって退院となってからの自宅介護は、相当大変なものだったようだ。

父から母への呼び出しは、父のスマホからLINEで「H」と連絡が入る。Helpの意味だそうだ。それは夜中も15分ごとに続き、母はほとんど眠ることができず、食事もとれず、看護士の姉が仕事の合間に母と交代して、母を眠らせていた。

保育士として忙しくしていたわたしが「父、危篤」と呼ばれたのは父が亡くなる1週間前、そのときには母も姉も限界を超えて頑張っていた。わたしは痰取りもできないし、父はわたしに頼みごとを一切しないので、家事をして母と姉の負担を減らすことしかできなかった。

亡くなる直前の数日間、父は目覚めると「もう死んだかな」と筆談で聞いてくるようになった。母が「ううん、生きてるよ」と答えていたのを何度も目にした。

死ぬということは誰もが初めてのことであって、それを体験した人の体験談など聞けるわけもない。死んだあとに自分がどうなるのかなど予想もつかず、かすかな意識の中、自分がまだ生きているのか もう死んだのかが わからなくなる感覚とはどんなものなのだろうと思っていた。

その日、朝少しテレビを見た父は、ジェスチャーで「テレビ終わり、寝る」と母に伝えたそうで、母は部屋にある父の机に向かい、趣味の書道をしていた。

その頃にはもうスマホすら持てなくなっていた父は、ベッドの端をコンコンと叩いて母を呼んでいた。だから母は常にその音が聞こえる場所にいなくてはならなかったのだ。痛い、寒い、テレビ、電気、カーテン、小さなことでも父は何度も何度も母を呼びつけていた。

父が寝ると言ったので父を母に任せ、わたしと姉は1階のリビングで話をしていた。途中、わたしはなんとなく2階の父の部屋をのぞいたが、父は眠っていて、母は書道に集中していたので、声をかけずに1階に戻った。その数分後だった。母の大きな声が聞こえた。

「なぜ呼んでくれなかったの」と。

父は最期のとき、母を呼ばなかった。ベットの端を叩く力さえ残っていなかったのか。それとも、介護に明け暮れ自分を犠牲にしてきた母の、趣味を楽しむわずかな時間を邪魔したくなかったのか。寝ていたはずの父は、目を開いてまっすぐ天井を見つめたままだった。

告別式、母は喪主の挨拶で「結婚して50年、主人はなんでもひとりで決めてきました。病気や治療のことも相談などしてくれず、愚痴も言わずひとりで戦ってきました。でも、最後の1か月、わたしや子どもたちに介護の時間を与えてくれました。愚痴を言い、甘え、頼りにしてくれました」と言った。

その言葉で、この1か月は大変だったけれど、残された母と姉にとって、とても大切な時間だったのだと改めて感じることができた。

父が残していったものは良くも悪くもたくさんあって、わたしはどちらかというと母にそっくりな性格なので、父を理解できない部分が多い。

だけど今思うのは、胃癌が見つかってからも父は父らしく、病気と真面目に向き合い、自分を諦めることなく残された時間に全力を尽くした。そのことは、この先わたしが余命宣告されるようなことになったときに、きっと間違いなく素晴らしい手本になるだろうと思う。

わたしは、わたしらしく。