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エッセイ19:「好酸球性肺炎のこと」の見出し画像
好酸球性肺炎のこと
〜長期治療の記録〜

2025年10月、「好酸球性肺炎」と診断された。

Xで病状についてポストしていたところ、同じ病気の方が数名フォロー&リプライをくれたので、ここで少し、自分の病気についてまとめておこうと思う。人それぞれの部分も多くあるので、参考まで。

1. 好酸球性肺炎とは

肺炎と聞くと、マイコプラズマ肺炎が真っ先に思い起こされる。子どもが小さいときには、風邪をこじらせて肺炎にならないか心配したものだ。

マイコプラズマ肺炎のように、細菌により引き起こされる感染症には抗菌薬(抗生剤)が効く。一般的に風邪症状を引き起こす病気は、細菌が原因であれば抗生剤が効くが、ウイルスが原因の場合には特効薬がないものが多く、症状を和らげるための対処療法をして自然治癒を目指す。

では、わたしが診断された「好酸球性肺炎」とは、どんな病気なのか。

症状としては、咳、発熱(急性型は38℃以上の高熱)、息切れ、呼吸困難など。アレルギー反応に関与する白血球の一種「好酸球」が肺に異常集積し、肺組織に炎症を起こす疾患である。

これは細菌によるものではないので、抗生剤が効かない。もともとアレルギーや喘息を持っている人が発症しやすい、ストレス、薬剤、カビ・タバコなど、原因は個人固有のものであるため、一般的には原因不明とされている。

治療法としては、ステロイドの投与が有効とされている。

ただし、みなさんご存知だと思うが、ステロイドには副作用が多くあり、長期投与することは体に良くないとされる。

なので、この好酸球性肺炎の治療としては、最初にステロイドをドン!と投与して病気を叩いて、ステロイドの量を徐々に減らしていき、最終的にステロイド0(ゼロ)にするという長期治療となる。

特に、慢性の好酸球性肺炎の場合、減らしている途中、またはステロイド0まで減らした際に「再発」の可能性が高い病気だと聞いている。そのため、慎重に病状を確認しながらステロイドを減らしていくという治療となる。

2. これまでの喘息とアレルギーの記録

もともと、風邪をひいていなくても常に鼻の奥のほうに詰まった感じがしていて、ひどいときは味と匂いがわからないという状態だった。風邪が長引いたときには、副鼻腔炎になることが多かった。

喘息・アレルギーと診断された大きな出来事がある。息子が小3のときに小学校の PTA 常任理事になったときのことだ。その年は、小学校の建て替えがあり、新校舎に移った年だった。

それまでの図書室は昔ながらのやり方で、手書きの貸出票で本を貸し出ししていたが、新校舎に移ったタイミングでデジタル化したいと先生方は考えていた。しかし、PCに詳しい先生、司書の先生ともに手が回らず、3か月を過ぎても本は段ボールに入ったまま山積みになっていて、図書室として稼働できていなかった。

そこで「わたしがやりますよ」と先生に声をかけて、本の登録作業をすることになった。全校生徒のPTAに手紙を配り、ボランティアで登録作業をしてくれる方を募り、手をあげてくれた総勢 76 名の保護者を束ね、総指揮官をやった。

当時、仕事をしていなかったわたしは、学校側が許してくれる 8時~18時、月~金というスケジュールで図書室にこもって、古い本と格闘していた。

作業は順調ではあったが、1か月経って風邪をひいたかな?と思う症状が出て、なかなか治らなかった。2か月近くでその登録作業からは手を引いたのだが、風邪にしては長すぎると思い、内科へ。

そこから半年。いくつか抗生剤を変えながら試してみたり、漢方にしてみたりしたが、どれも良い結果にはつながらなかった。

結局、「咳喘息」という診断がついた。

また、アレルギーに関しても、検査をしても主要なアレルゲンには何ひとつひっかからないという結果だったが、耳鼻咽喉科の先生によると「アレルギー症状は出ているのだから、何らかのアレルギーはあるのだろう」ということで、抗アレルギーの薬が処方され、そのときから現在まで15年近く、喘息とアレルギーの薬は続けている。

3. 好酸球性肺炎になった原因と思われること

喘息は年に1回ぐらい悪化することがあるか ないか程度で、ほぼ薬で抑えることができていた。アレルギーの薬はあまり効いていたとはいえなかったが、いわゆる鼻水やくしゃみが止まらないという花粉症のようなものではないため、なんとか症状をごまかしつつ、うまく付き合って来られたと思っていた。

2025年、好酸球性肺炎と診断されたとき、わたしはとある企業の本部で働いていた。

2023年11月から一般事務の派遣社員として勤務していたが、ECサイト担当として配属されたことにより、1年後には外注に出していた特集ページ・バナー・メルマガの作成を自身にやらせてもらいたいと申し出、念願のフロントエンドエンジニアとして勤務することができていた。

それまでの事務業務とフロントエンドエンジニア業務のかけ持ちはとても忙しかったが、ずっとやりかたった仕事なのでとても充実していた。

EC担当の上司は、30代の男性社員1人。派遣社員のわたしと二人三脚で2年間やってきて、仕事は非常にうまく回っていた。しかし、2025年9月、上司の異動が突然決まった。しかも2週間後だという。商品データベース業務とECサイトのことを把握しているのがそのEC上司とわたしだけなので、不安しかなかった。

わたしが商品データベースのデータ入力と整備、ECサイトのコーディングをして、それをEC上司がチェックするという態勢ではあったが、グループ自体が人手不足だったため、EC上司は商品バイヤーも任されていて、もともと激務であった。EC上司の業務は他の社員にむりやり振り分けられ、全員がわけがわからないまま引き継ぎをされ、全員がわけがわからないままの状態の中、EC上司は異動していった。

残されたのは「派遣社員なのにECサイトのことをいちばん知っている」とまわりの社員に認識されている、わたし。

このとき、とにかくEC上司の異動が決まってからのストレスが半端なかった。Xでも愚痴をこぼしまくるポストをしていたが、「え、こんな仕事の仕方する人たち、いるの?」とびっくりするぐらい、まわりの社員たちは仕事ができなかった。

そして、EC上司の異動が宣告されてから、1か月後の発症。

それまで自分の喘息とアレルギーとうまく付き合ってこられたのに、急にこんな病気を発症するなんて。絶対にこのときのストレスが原因だと思っている。

4. 副作用について

ステロイド投与には副作用が伴うので、以下にまとめる。

  1. ① 免疫機能低下によリ、感染症にかかるリスク UP
  2. ② 骨粗鬆症のリスク UP
  3. ③ 胃や十二指腸の粘膜が弱くなり、消化性潰瘍にかかるリスク UP
  4. ④ 血糖値上昇により、糖尿病にかかるリスク UP
  5. ⑤ 体内に塩分と水分が溜まりやすくなり、高血圧・むくみ UP
  6. ⑥ 眼圧が下がり、白内障・緑内障のリスク UP
  7. ⑦ 満月様顔貌(ムーンフェイス)と呼ばれ、顔が丸くなる、お腹周りに脂肪がつく。
  8. ⑧ 不眠、気分の高揚、うつ状態。

①~③について、ステロイドと一緒に、フォロー薬が処方されている。

④の血糖値について、自分では計測できないからわからないけれど、甘いものを食べないようにするというのは無理な話だし、血液検査でもそれほど高くはないので、なるべく血糖値が上昇しないよう、野菜を先に食べるなど気を付けている。

⑤の高血圧について、血圧は自宅で測っているが、問題なし。もともと高くはない。

⑦のムーンフェイスについて、ものすごく自覚あり。顔がまんまるだ。 ステロイド0になったときに、丸い顔がもとに戻りつつあったので、やっぱり薬のせいだったんだと思った。

⑧の精神状態について、自覚なし。よく眠れる。

⑥の白内障・緑内障については、次の 5. へ。

5. 緑内障のこと

◇ 11/5 (土)

白内障、緑内障と聞いてビビる。「白内障は手術できるが、緑内障は治療しても良くならない。悪くならないようにするだけ。失明するリスクもある」と聞く。

緑内障になったらどうしようと焦り、退院してステロイド長期治療が始まったあとの 11/5 (土)、D眼科へ行って「長期治療になるので、白内障・緑内障のリスクがないか、定期的に検査してほしい」と申し出た。

そうしたら、ものすごく態度の悪い先生が「ステロイドを数か月 飲んだぐらいじゃ、白内障・緑内障になんて ならないよ。ステロイドで白内障・緑内障になる人は、もう何年も飲んでる人のことだから」と鼻で笑いやがった。

「とりあえず、検査したいならするけど? したいの?」と言われ、その日は眼圧検査をお願いした。先生は「眼圧が少し高いけど、もともと高いのかもしれないし、ステロイドのせいとか言い切れないな」と。

そして、「たぶん平気だと思うけど、1か月後ぐらいにまた来てみたら?」と予約を取られた。

◇ 12/21 (日)

1か月後の診察は女性の優しい先生で、この日は眼圧検査だけではなく緑内障の検査もしてくれた。

結果、「視野が少し狭いので、次回は視野検査をしてみましょう」と。次回の予約を取ってくれた。

◇ 1/25 (日)

視野検査。やはり両目とも、ほんの少しだけれど視野欠損が見られるとのこと。

ただ、これで緑内障決定というわけではなく、もともとそうなのかもしれないし、緑内障ではなく似たような症状の病気もあるとのことなので、現段階では様子見。

3か月後に欠損部分が広がっていたら治療を始める、それからでも遅くないとの診断。

◇ 4/26 (日)、7/25 (土)

毎回違う先生。このときの先生方は「視野検査は半年~1年に1回で充分」との見解で、この日は視力検査、眼圧、眼底の検査をおこない、異常なしとのこと。

7/25の診察の際、「じゃあ、次は視野検査しましょうか」と言い、予約をとってくれた。10月に視野検査の予定。

6. 好酸球性肺炎の発症と経過

さて、前置きが非常に長くなったが、ここから好酸球性肺炎の発症と経過。時系列で記録する。

【2025年】

◇ 9月後半

喘息が悪化。いつも秋にはアレルギー・喘息が悪化するのでそのせいだと思っていたが、薬を飲んでもなかなか治らず、どんどん悪化していき、咳は一日中続いた。

◇ 9/26 (金)

夜 38.0 度の発熱。

◇ 9/27 (土)

かかりつけのA病院(内科・アレルギー科)へ。

インフルエンザ・コロナの検査、陰性。抗生剤処方。

◇ 10/4 (土)

かかりつけのA病院へ。

1週間経ったが抗生剤が効いていないので、レントゲン撮影。この病院ではCT検査ができないので、別病院にすぐに言ってCTを撮ってくるように言われる。ただし、CTの結果は1週間かかるとのこと。

◇ 10/8 (水)

朝、家を出る 30 分前、ひどい咳が出て息苦しくなり、脳貧血のような感じで、立っていると倒れそうになる。座っていれば大丈夫。なんとかなるかなと思い予定通り仕事へ向かったが、職場の最寄りから会社までの徒歩13分、フラフラの状態でなんとか会社へたどり着く。

その日に片付けなければいけない仕事があったため、片付けてから15時早退。歩けないのでタクシーを呼び帰宅。

◇ 10/9 (木)

かかりつけのA病院へ。

予定ではCTの結果はまだであったが、かかりつけ医がCT撮影をした病院に連絡、なんとかCDをゲット。

バスで20分ほどかかるB市立病院への紹介状を出してもらうが、連休に入る関係でその病院の予約が 10/14 (火) しかとれないというので、それまで耐える。

◇ 10/14 (火)

B市立病院へ。

まずインフルエンザ・コロナウイルスの検査が必要とのことで、隔離されて検査を受ける。ともに陰性。

その後、診察室に通されるが、「CT画像を見る限り、おそらく好酸球性肺炎だと思われるが、この病院は緊急性の高い患者を診る病院であるため、 好酸球性肺炎だと決定しても長期治療はできない。それならば、もっと家から近い病院で診断してもらってそのまま治療に移ったほうがいい」と言われる。「さんざん待たせたあげく、なんなんだよ、最初から言えよ」の気持ちが大きいが、この病院に紹介状を書いた元の病院の判断が間違っていたと思いなおし、すごすご退散。

家から近い中堅のC病院に紹介状を出してくれた。症状がひどいので、明日行くように言われる。

◇ 10/15 (水)

C病院の内科へ。

血液検査、レントゲン、CT撮影後に診察。明日から入院するように言われる。おそらく好酸球性肺炎で確定だと思うが、それを確定するには好酸球性肺炎の検査をしなければならないというので、翌日朝イチで検査をして、その結果を見てそのまま入院とのこと。

◇ 10/16 (木) ~ 10/21 (火) C病院へ入院
  • 朝イチの検査で、好酸球性肺炎であることが確定された。入院中は点滴によりステロイド投与が続いた。点滴の管をつけたままガラガラと病院を練り歩くのも慣れ、院内のコンビニまで行けるほどになった。
  • ステロイドはよく効き、体調はどんどんよくなって咳もかなり減ったし、食欲が出て、薄味で魚ばっかりの病院食もとてもおいしくいただけた。食事の時間が楽しみだった。
  • いろいろとステロイドの副作用があるが、その中に「高血糖になる」というものがある。1日に3回、血糖値を計るのだが「120を超えるとインスリン注射ですよ~」と看護士さんに言われていて、毎回ビクビクしていた。魚ばっかりの病院食にちょっと飽きて「そろそろ から揚げとかカレーが出ないかなー」なんて思った矢先にカレーが出て、うっきうきでカレーをたいらげたのだが、その後の血糖値測定で「119」をたたき出してしまった。看護士さんが「先生に聞いてきますね~」と言って出て行ったあと、「ギリセーフでした~」っと言いながら戻ってきたときには、「カレー怖ぇ!」って心底思った。
  • 退院前の検査結果でも経過は良好、予定どおり退院が決まった。
  • 10/21 (火) の朝イチ退院。仕事がたまっていて、当然誰もわたしの仕事はできない状況なので、午後から出社。入院中に在宅勤務の手続きを急いでやってもらっていたので、派遣社員なのに異例の在宅勤務がスタートした(のちに「在宅勤務は派遣だから1か月半しかできないと告げられ、12月の始めに退社)。
◇ 10/21 (火) ~ 12/24 (水)

2週間ごとに、C病院へ。

入院中に点滴で受けていたプレドニンというステロイドの薬は、退院後から5mg/錠 を 5個/1日。2週間後に血液検査とレントゲン撮影をして経過観察。問題がなければ、プレドニンが1錠減る。というのを2週間ごとに繰り返し、ステロイド0にする長期治療スタート。最短で3か月。

この間、ステロイドは良く効き、症状は完全に回復していて、2週間ごとの検査結果にもまったく問題はなく順調であった。

【2026年】

◇ 1/7 (水)

年末年始の休みを利用して、自衛隊の音楽隊となって沖縄で勤務している息子が戻ってくるというので、12/30、娘・息子の3人で近くのレストランに行った。

ステロイドの副作用の1つに「免疫機能が下がり、感染症にかかりやすくなる」というものがある。単なる風邪であっても感染症にかかってしまうと、好酸球性肺炎の再発なのかわかりづらくなり、治療が滞る可能性があるため、感染症に気を付けてと先生から言われていたのだが、治療が始まって3か月、スーパーと薬局の買い物以外は外に出ない生活にも飽きて、そろそろ大丈夫ではないかという謎の自信によって、息子がせっかく帰ってくるのだからと年末に3人で会うことにしたのだが、まんまと風邪をひいてしまっていた。

この日、C病院へ。

この日の血液検査とレントゲン撮影では、少し好酸球値が上がっていて、レントゲンにも少し影が出ていた。ただ、先生は「単なる風邪でも好酸球値が上がることもあるため、このままステロイド0に移行しましょう」という診断、2週間後の 1/21 (水) に経過観察の通院予定となった。

◇ 1/19 (月)

夜 38.4 度の発熱。

◇ 1/20 (火)

予約日の前日だが、C病院へ。

予約外で受診。血液検査・レントゲン撮影、ともに症状の悪化が認められた。先生は「前回の診察時に、もっと慎重になるべきでした」と言っていた。

念のため抗生剤が処方され、1週間様子を見て、それ次第でステロイド量を戻すとのこと。

◇ 1/28 (水)

抗生剤を1週間飲み、C病院へ。

血液検査、レントゲン、CT撮影。症状の悪化が認められ、再発確定。ステロイドは最初の 5mg/錠 を 6個/1日、完全にふりだしに戻る。

このとき、もともとの自分のアレルギーの状態から、「アレルギー検査でひっかからないのに、これは本当にアレルギーなのか」と疑問をぶつけたところ、「1つ疑うべき病気があるので検査をしてみましょう」とのことで、追加の血液検査をした。

また、「鼻のCT撮影をしてみて、必要ならば耳鼻科と連携して同時に治療していく」とのこと。

◇ 2/4 (水)

C病院へ。

鼻のCT撮影のみ。

◇ 2/18 (水)

C病院へ。

血液検査、レントゲン撮影。好酸球性肺炎は、しっかりとステロイドが効いて、症状は良くなっていた。

1/28に追加の血液検査をした「先生が疑っていた病気」が何だったのか、聞いたけれど忘れてしまった。でも、検査結果を見るとその病気の心配はないとのこと。

鼻のCT撮影の結果を見ると、副鼻腔炎になっているとのこと。ステロイドが効いているので、特に鼻の症状が悪いわけでもなく、黄色い鼻水が出るわけでもなく、いたって平常運転なのに。

この段階では慢性 or 急性の判断がつかないので、次回の内科受診までの間に、同病院の耳鼻科を受診するようにとのことで、院内紹介状を連携してもらった。

◇ 2/27 (金)

C病院の耳鼻科を受診。

副鼻腔炎は確定だが、抗生剤を1か月飲んで、経過を確認するとのこと。急性の副鼻腔炎なら、抗生剤で症状が回復するはず。

診察中に鼻カメラで確認したが、そもそも通り道が細いらしい。見える範囲にポリープなどはないが、抗生剤で治らない副鼻腔炎であれば、手術が必要。内視鏡を使用した手術は、鼻の穴から内視鏡と細い器具を挿入し、炎症を起こした粘膜やポリープを除去・掃除する手術とのこと。

実は、父がおそらく同じ症状だった。生前、慢性的な鼻炎に悩まされていて、「詳しく検査したら、鼻の構造によって膿が溜まりやすくて、それを治すには手術が必要だと言われたから、諦めることにしたんだ」と話していたのを覚えている。

◇ 2/27 (金)

耳鼻科受診の同日、喘息の吸入がなくなったので、かかりつけのA病院へ。

C病院で「肺炎になる前に処方されていた喘息とアレルギーの薬は、もとの病院でもらうように」と言われていたため。

これまでの経過を話し、喘息の呼吸器機能検査をする。ステロイドが効いてるから悪くはないと思ったが、それほど良くもないとのこと。引き続き喘息の吸入は続けるが、ステロイド治療中なので、レベルを下げて続けることになった。

A病院の先生から「好酸球性副鼻腔炎の可能性もあるかも」と言われた。なにそれ、その名前、初めて聞いたんですけども。C病院では特に説明がなかったし。とりあえず薬で治るといいんだけど。

2024年に尿路結石で手術入院、2025年に好酸球性肺炎で入院と続いているので、日帰りだったとしても、また手術は嫌だなぁと思う。

◇ 3/4 (金)

C病院の内科へ。

血液検査、レントゲン撮影。好酸球性肺炎の症状は、すっかり回復。5mg/錠 のステロイドは、4個/1日となった。

◇ 3/18 (水)

C病院の内科へ。

血液検査、レントゲン撮影。経過良好。5mg/錠 のステロイドは 3個/1日となった。

◇ 3/27 (金)

C病院の耳鼻科へ。

金曜日のこの枠が非常勤講師の枠なのだが、前回と違う先生で言っていることが全く違う。

今回の先生は鼻の中を見て「特に狭いこともない」「症状もひどくない」「ひどくなったら対処療法で良い」「ステロイドの点鼻薬は続けること」と。それだとわざわざCT撮ってここの耳鼻科に変えた意味がないんだけどなと思う。できることなら治療して治したい。でも、「ずっと鼻の奥が詰まった感じがする」なんて症状は、きっと医者からしたらたいしたことではないんだろう。

A病院に「好酸球性副鼻腔炎の可能性もあるかも」と言われたことを伝えると、「その可能性もある」と言うが、断言はしない。

◇ 4/1 (水)

C病院の内科へ。

血液検査、レントゲン撮影。経過良好。

これまでの研修医の先生が4月から異動になり、今後は新しい研修医の先生に変わるらしいのだが、今日がちょうど異動日であるため、今日のみ隣の部屋のベテランの先生に診てもらうことになった。

ベテラン先生は、「なぜ1ターン目で再発したのか、しっかり検討して対応しないと、また同じことになる」と。耳鼻科での経過と処方についても話したところ、「もともと好酸球性副鼻腔炎で、それが肺に影響している可能性もある」と言う。しっかりと鼻の治療もすること、ステロイドの点鼻薬は有効であるとのこと。

かかりつけのA病院で、ステロイド治療中だからという理由で喘息の吸入のレベルを200から100に下げて処方されていることを伝えたら、「通常どおりの200に戻してください」と言われた。A病院で「症状がひどくなかったら飲まなくてもいいよ」と言われていた薬も、毎日しっかり飲むように言われる。そうしないと、何が原因で再発したのかがわからなくなるからだという。

ベテラン先生は、「次回から新しい研修医の先生だけど、僕もしっかり経過をチェックしてフォローするから」と言ってくれた。

5mg/錠 のステロイドは、2個/1日となった。

◇ 4/3 (金)

前日に嵐のラストライブに行き、この日、新しい会社に初出勤だった。ラストライブから帰宅して興奮冷めやらぬまま、もろもろ準備して寝たのは1:30、朝は5:10起床で出勤。緊張も相まって、帰宅中に喘息の発作を起こした。乗換駅で長い階段を無理して上ったのが良くなかった。階段の途中、人が多くて途中で引き返すことも、休むこともできなかった。

最寄り駅から徒歩20分、倒れそうになりながら、途中で何度も立ち止まりながら帰宅。家に着いてからも、立ち上がると倒れそうになる状態。症状は昨年入院したときの前日と同じ感じ。

そういえば…と思い出した。メプチンエアーのことをすっかり忘れていた。発作用の吸入である。カバンに入れて常に持ち歩いていたのに。

メプチンエアーを吸ったら、症状が落ち着いてきた。

無理しちゃダメ、絶対。

◇ 4/11 (土)

かかりつけのA病院へ。

4/3の発作は、翌日にはすっかり回復していた。

4/1にC病院のベテラン先生から「吸入は200にするように」と言われていたので、これまでの経過とベテラン先生の見解を伝えたところ、なんとA病院の先生は「私の考えは違う」「100でいい」と真っ向から反対し始めた。

そんなこと言われても、肺炎の治療をしているのはC病院だから、C病院の治療の邪魔にならないようにC病院の言うとおりにしたいんだけどなぁと思いつつ、「じゃあ、100ならいらないです」とは言えず、100の吸入を処方され帰宅。この吸入、けっこう高いんだけどね……。

◇ 4/15 (水)

C病院の内科へ。

血液検査、レントゲン撮影。経過良好。

新しい研修医の先生だった。A病院で「100でいい」と言われて100を処方されたことを伝えたが、「いえ、200がいいです」と言われた。そりゃそうだよね、そう言うよね。

「どうします? A病院で200にするのが難しければ、当院で200を処方しますが」と。長く見てもらっていたA病院には申し訳ないけど、治療が終わるまではC病院の言うことを聞いたほうが良いと判断。A病院で出してもらっていた薬すべてを、C病院で出してもらうことにした。

なぜC病院は、最初「これまでの喘息とアレルギーの薬はA病院で出してもらってください」と言っていたのか。おそらくC病院での好酸球性肺炎の治療が終わったら、A病院に引き継ぐつもりなのだと思う。大きい病院だから。

5mg/錠 のステロイドは、1個/1日となった。

◇ 4/24 (金)

C病院の耳鼻科へ。

また違う非常勤講師の先生だ。毎回違う。今回の先生は鼻の中を見て「異常なし」と言い、カルテを見て「じゃあ、ステロイドの点鼻を継続ですね」と。もう何も言うまい。この先生に言ったって、どうしようもないんだから。

◇ 5/20 (水)

C病院の内科へ。

血液検査、レントゲン撮影。経過良好。

前回の受診時からステロイドは 5mg/日となったわけだが、ここでステロイド0へ移行せず、2.5mg/日へと刻む作戦に。2.5mgを2か月続けてみて、経過を見るという。

最初のターンで 5mgから0に移行したときに再発してふりだしに戻ったわけなので、刻むのは良いと思う。再発しないといいなぁ。

◇ 7/3 (金)

C病院の耳鼻科へ。

7月に入ってから、鼻と喉の奥にひっかる感じがして、少し喘息も出始めた。

鼻の中を見てもらったが、特に膿もたまっていないので、抗生剤の必要なしと判断され、いつものステロイドの点鼻のみ処方。

◇ 7/22 (水)

C病院の内科へ。

血液検査、レントゲン撮影。好酸球値が少しあがっているが、肺に影はないとのこと。

鼻と喉の奥にひっかる感じと喘息は少し悪化し、咳が出る。ずっと咳が出ているわけではなく、夜は眠れているので、それほどひどい状態ではないと思う。

好酸球値のアップは風邪の可能性あり、「このまま2.5mgでいくか、少し増やすか」と選択を迫られた。わたしとしては、今は完全在宅勤務だが9月からは通勤になるので、なんとか症状を落ち着かせたいと思い、5mgに増やしてもらうことにした。

◇ 8/12 (水)

C病院の内科へ。

血液検査、レントゲン撮影。そういえば、好酸球値の結果を聞かなかった。いつも先生が先に言ってくれるのだが、先生がたぶん言い忘れたんだと思う。こちらから聞くのも忘れた。

症状はだいぶ良くなり、鼻の奥には少しまだ引っかかりがあるが、咳はほぼおさまっている。

この結果を受け、「5mgを長期的に続けたほうが良いと思う」と提案された。「5mgで落ち着いたら、またステロイド0にチャレンジすることもできる」と言う。「5mgという少量であれば、ステロイドの副作用の影響もそれほどではないし、5mgで続けている人は多くいます」と。

正直、5mgでも完全に良くなったわけではなく、何かのきっかけで咳は出てしまう。そう考えると、ステロイド10mg以上は良く効いていたんだなと感じる。でも、5mgでも生活に支障が出るほどではない。好酸球性肺炎だと診断する前は、この程度の咳でずっと生活して、仕事もしてきたわけだし。

5mgより減らすのは考えられなかった。咳がひどくなるのと、もしかしたらまた高熱が出るかもという恐怖心が勝った。

結局、先生のおっしゃるとおり、5mgで続けることにした。

7. 感想

◇ 3/7 (土)

好酸球性肺炎は再発が多い病気だとは聞いていたのだけど、実際にステロイド0までいってからの再発、「ふりだしに戻る」はキツイなぁと思う。

ステロイドの副作用でいちばん気をつけているのは、「免疫機能が下がり、感染症にかかりやすくなる」というもので、前述したとおり感染症にかかると治療に支障が出るので、なるべく在宅で仕事をしたい、人込みになるべくいかない…と心がけてきた。特に冬にインフルエンザが大流行していたので、その時期はずっと引きこもっていた。

でも、そうも言っていられなくなってきた。前職を辞めてからすぐに求職活動を始めたけれど、あれから3か月、まだ定職が見つかっていない。フロントエンドエンジニアとして働きたいけれど、実力不足は否めない。企業だって、この年齢のエンジニア初心者を育てていくことなんて到底考えないだろうし、書類審査も当然通らないだろう。仕方がない。

現段階では、とりあえず一般事務でも、時給が希望より安くても、働きたい。働かなければと思っている。ひとりで生きていくって、たいへんだ。

通院記録は今後も続けていくので、気になる方はまた読んでくださいね。

いろいろあるけど、好きなことたくさんやって、頑張って生きるよ。

◇ 9/2 (水)

好酸球性肺炎は再発が多い病気だということは最初から聞いていたけれど、できることなら完治したかった。通院費・薬代もバカにならないし、なによりステロイドの副作用に怯えながら生活するのが嫌だった。

でも仕方がない。ひとまず5mgで続けてみようと思う。

エッセイ17:「ハンバーグMEMO」の見出し画像
ハンバーグMEMO

突然ですが問題です。

ここに牛60%・豚40%の牛豚合いびき肉が500gあります。それと別に、牛100%のひき肉が300gあります。牛75%・豚25%のハンバーグを400g作りたいとき、牛豚合いびき肉、牛ひき肉、それぞれ何gずつ使えばよいでしょうか?

それでは、シンキングタイム、スタート!!!!

シンキングタイムの間、Twitter(現X)とInstagramに投稿された #のりめし の一部をご覧ください。

「古代米にミニカレー・ナス肉味噌チーズ・えのきニンジンバター炒め」の写真

古代米にミニカレー
ナス肉味噌チーズ
えのきニンジンバター炒め

「焼き餃子」の写真

見てのとおり焼き餃子

「フライパンで揚げた魚のフライ・トルティーヤチップスサラダ・ナポリタンの具だけをグラタンみたいにしたやつ」の写真

フライパンで揚げた魚のフライ
トルティーヤチップスサラダ
ナポリタンの具だけをグラタンみたいにしたやつ

「豚肉とピーマンとニンニクの芽炒め・塩肉じゃが」の写真

豚肉とピーマンとニンニクの芽炒め
塩肉じゃが

「〔残りもの寄せ集め朝ごはん〕前日の残りの白和えひじき・どこかのナゲット・バターコーン枝豆・冷凍とろっとマンゴー・セブンイレブンの「チョコチップが入ったスティックメロンパン」の写真

〔残りもの寄せ集め朝ごはん〕
前日の残りの白和えひじき
どこかのナゲット
バターコーン枝豆
冷凍とろっとマンゴー
セブンイレブンの「チョコチップが入ったスティックメロンパン」

「ひとりクリスマスイブにファミチキ・前日の残りの豚肩ロースしょうが炒め・わかめの入った野菜サラダ・白菜とお揚げの味噌汁・納豆にしそ昆布」の写真

ひとりクリスマスイブにファミチキ
前日の残りの豚肩ロースしょうが炒め
わかめの入った野菜サラダ
白菜とお揚げの味噌汁
納豆にしそ昆布

というわけで、正解の発表です。

牛75%・豚25%の400gのハンバーグを作るのに必要な豚肉は、

400g×0.25=豚100g

この豚肉100gを牛60%・豚40%の合い挽き肉から取る場合、

牛6:豚4 = 牛?g:豚100g

牛?g = 6×100÷4 = 牛150g

牛150g+豚100g=牛豚250g

よって、牛の不足分は、

400gー250g=牛150g

答え:

牛60%・豚40%の牛豚合いびき肉 → 250g

牛100%のひき肉 → 150g

……っていう計算をしながら、ハンバーグを作りましてね。

某番組でロイヤルホストの方が「合い挽きハンバーグのおいしい比率は、牛75%・豚25%だ」って言っていたのを聞いて、作ってみたくなったわけです。

以前の研究(この記事の1つ前の「牛豚鶏ハンバーグ研究所」の記事)では、「ハンバーグは牛70%・豚30%がおいしい」という自論からのスタートでしたね。

今回、牛の割合を少し上げるということもあり、パン粉の量は増やしてみました。あと、牛乳ではなくて豆乳を使っています。

それで、味はどうだったかって?

………… そんなの、おいしいに決まってるでしょ。
ハンバーグなんだから。

食レポできない人かよ。

「」の写真

なんだかんだ言っても、ハンバーグ大好きマン

おわり。

(ただの自分MEMOでした)

エッセイ13:「牛豚鶏ハンバーグ研究所」の見出し画像
牛豚鶏ハンバーグ研究所

こんにちは。牛豚鶏ハンバーグ研究所の のり です。
なんそれ。いつそんな肩書き付いたん。

でもね、わりと真面目に研究していました。せっかくなので、ここにまとめようと思います。

参考にするもしないも、あなた次第。別に美味しくないじゃんって文句は言っちゃダメ、絶対。

さて、最初に研究のきっかけをお話しします。

いつもスーパーや生協で「合い挽き肉」と書かれた肉を買ってハンバーグを作るのですが、あるとき、生協のチラシで「合い挽き肉 (牛70%、豚30%)」と書かれた肉を見つけまして。

この配合をあえて書いてあるということは、いつものは配合が違うということかと思って調べましたところ、だいたい 牛6:豚4、もしくは 牛5:豚5 の配合が多いようです。

ということは、いつもより牛多めか…と思いながら、その肉を買ってハンバーグを作って食べてみたところ、「あれ、いつもよりおいしい気がする」って思ったんですよね。

それで、そのことをTwitterでツイートしたところ、フォロワーさんから「某料理研究家の○○道場の方が『鶏を入れた3種ハンバーグがおいしい』と言っていた」というお話を聞き、それならば作ってみようホトトギス的な、ね。うん。

ちなみに、○○道場の方の3種ハンバーグのレシピがネットに落ちてないか探したけれど、見つからず。料理アプリに他の方があげている配合はありましたが、それぞれ違っていて、「この配合がベスト!」というものではなさそうでした。

イラストエッセイ No.013 2021-08-05 のイラスト

2021.8.5 研究スタート

先に、わたしが作るハンバーグの、肉以外の材料を書いておきますね。

  • 玉ねぎ …… 肉の量の 3分の1の量
  • パン粉 (細目) …… 大さじ1
  • 牛乳 …… 大さじ1
  • 卵 ……  (肉が400〜500ぐらいのとき) 1個
  • 塩・胡椒・生姜すりおろし・ナツメグ …… 適量

玉ねぎは、炒める派です。
荒めの生パン粉を使うときは、牛乳を大さじ 1.5 〜 2 にします。
スパイスは、なんとなく気分でクミンを入れるときもあり。

そして、主役の肉は、7:3の牛豚で牛の量は固定、豚鶏の量を変えながら加えていきました。

まず、牛豚の割合を変えずに、鶏を加えるところから。

牛:280 g  豚:120 g  鶏:80 g  (計 480 g)

鶏肉を多く入れると つくね寄りになるのではないかと予想していましたが、やはりジューシーというよりは、固めでしっかり食べ応えありのハンバーグになった感じ。

今度は、豚を多くしてみました。

牛:140 g  豚:210 g  鶏:100 g  (計 450 g)

これがですね、驚いたことに、母が作るハンバーグ寄りになりました。

つまり、わたしが小さい頃から食べていたハンバーグは、おそらく豚肉のハンバーグだったんですね。豚肉ハンバーグは、油多めで子ども向きかなぁと思います。

懐かしいなぁと思いつつ、これは却下です。わたしの目指すところではありません。

次に、牛豚を同じ量にしてみる作戦に。ただし、鶏が多いと固くなることはわかってるので、少し少なく。

牛:150 g  豚:150 g  鶏:100 g  (計 400 g)

これはですね、んー、なんていうか、無難?

うまく言えないけど、ちょっと違うかなと思いました(語彙力な)。

なんだかよくわからなくなってきたので、初心に戻り、最初の牛豚7:3に、鶏と豚を少しずつ配合を変えて プラスしていくこと、3回ほどやってみたところ …… こうです。

イラストエッセイ No.070 2021-10-01 のイラスト

2021.10.1 研究結果「全部おいしい」でいいんじゃね?

飽きました。アカンやつや。

これだ!というものに出会えない。やはり鶏は邪魔者なのではと思い始めてきました。しかし、諦めたらダメです。せっかくここまでがんばってきたんだから。

そこで、配合を大きく変えないと差が出ない、今度はむしろ逆に行ってみようと思い、鶏の量をガツンと多めにしてみました。

牛:280 g  豚:120 g  鶏:200 g  (計 600 g)

その結果、こうです。

イラストエッセイ No.084 2021-10-15 のイラスト

2021.10.15 これだけは確信

タレは甘いやつが好き。

ちなみに、味比べするため、毎回ソースなしで食べていますが、基本的には 肉汁にケチャップ+中濃ソース+砂糖を混ぜたものを、仕上げに絡めて焼くのが好きです。母から受け継いだ味ですね。我が子も小さい頃からずっとこれが好き。トップ画にあげた和風ハンバーグは、たまに作ります。

やっぱりね、鶏が多いと つくねっぽくなるんですよね。理想と大きく離れました。

ハンバーグ研究を始めてから、数ヶ月。

その間、月2〜3回のペースで作ってきましたが、いったいわたしは何をやっているのか、この研究には意味があるのか、家族は誰も感想なんて言わないし、腹に入れば一緒って感じだし、もうどうでもよくね?…と、自分でこの研究自体を否定し始めたので、もう最終段階に突入です。

最終段階は、いちばん最初に「あれ、おいしい気がする」と思った7:3の牛豚と、鶏を加えてまぁまぁ良かった配合の2種類を作り、比べながら実食。旦那に食べさせました。

イラストエッセイ No.153 2021-12-23 のイラスト

2021.12.23 最終回となるのか?

「ひき肉の配合が違うから、どっちがおいしいか、おしえて」と言って、旦那に出しました。右に牛豚のみ、左に牛豚鶏を置いています。

〔右〕牛:140 g  豚:60 g (計 200 g)

〔左〕牛:140 g  豚:60 g  鶏:40 g (計 240 g)

ちなみに、旦那はソースなしでは食べないので、ステーキソース、ケチャップ、中濃ソースなどを食卓に出しています。

結果。旦那の意見です。

右は、もろハンバーグって感じ。ステーキソースに合う。

左は、和風な感じ。大根おろしに合いそう。

なん …… だと ……?(困惑)

研究するポイントは、「この配合のハンバーグがおいしい」ではなくて、「この配合のハンバーグには、このソースが合う」だったというのか?

確かに、わたしが 7:3 の牛豚ハンバーグを「おいしい」と感じたのは、ステーキのように牛肉が強かったからかもしれない。ステーキなんて頻繁に食べないから、牛肉を欲していたのかもしれない。

確かに、鶏を加えるとつくねに近くなるのだから、和風ハンバーグとしてはベストなのかもしれない。

こうして、牛豚鶏ハンバーグの研究は、「ベストな配合とソースの組み合わせ研究」へと進化して続くのであった。

いやいやいや、うそうそ。
わたし、もう無理だと思う。

なんとなーくわかったから、もうこれで終わりにしますね。

長い長い研究結果、最後まで読んでくれたみなさんも、なんとなーく参考にしてもらえたら、嬉しいです。

あと、「我が家のハンバーグはこれ! 絶対この配合はおいしいよ!」っていうハンバーグ自慢、(noteの)コメントで受け付けております。参考にさせて。お願い。だって、もうわかんないんだもん。

以上。

のりでした。
( ↑ 牛豚鶏ハンバーグ研究所の肩書き、なくなったわ)

エッセイ11:「あのときと同じ言葉で」の見出し画像
あのときと同じ言葉で
〜1月19日〜

まず、昨日(2022.1.18)描いたイラストが、これだ。

イラストエッセイ No.179 2022-01-18 のイラスト

息子、4月から成人になるってよ。

このイラストを描いたことを今朝ふと思い出して、息子に「4月に成人になるってよ」という話をした。

「具体的に何ができるようになるの?」という息子の疑問に、ざっくりと「親の同意なく、自分でいろんな契約ができるようになるよ」と言って、具体的な内容を軽く説明した。

そのときに、大事なことを1つ。

「どんなに困っても、どこかで勝手にお金を借りないこと」

そして、そのあとに付け加える言葉は、娘が20歳になったときにも、一人暮らしを始めるときにも言った言葉。

「借りるなら、○○銀行に借りなさい。無利子だから、他のところよりお得だよ」

○○に入るのは、わたしの名字だ。お金なら貸してあげるから、困ったことがあったら、ちゃんと言いにおいで…と。

実は、これは父がよく言っていた言葉なのだ。

「これ、じじちゃんがよく言ってたよね」とわたしが笑うと、「ああ、言ってたね」と、7年前、父の葬儀で人目もはばからずに声をあげて号泣していた息子が、笑いながら父を懐かしむ。

子どもたちが小さかった頃、わたしが子どもたちを連れて実家に帰ったときのことだ。

母に「もう全然お金がたりなくてさ、わたしの入力代を全部生活費にまわしてもギリギリで」と愚痴をこぼしていると、横に座って無言で新聞を読んでいた父が、笑いながら言った。

「どうしてもダメだったら、□□銀行に借りなさい。無利子だから、他のところよりもお得だぞ」と。□□は父の名字だ。

冗談めいた言い方で、父はその後も何度か、わたしにその言葉をくれた。

朝、息子に同じ言葉を言ったときは、本当にただ父の言葉の真似をして、父のように冗談めいた言い方で伝えたのだけど、夕食の支度をしながら考えていて、ふと気がついた。

そうだ、あのときの父の言葉は、今、わたしが娘や息子に感じている心配や、巣立っていく子どもたちへのエール、それと同じだったんだと。

父の最期については「母への合図と 最期の瞬間 〜胃癌と向き合った父の記録〜」の記事に書いたが、今、読み返しても、なんてひどいことを考えている娘なんだ … と思う。

(まだ読んでいない方は、下のリンクからどうぞ)

わたしは父が亡くなる直前の数日間ですら、父の手も握らなかったし、慰めの言葉も別れの言葉も言わなかった。感謝の言葉すら言えなかった。

この記事に書いたように父に対して怒りの感情があって、それをどうしていいかわからなかったというのが、このときの本音だ。

だけど、今日気づいたのは、父がくれたこれまでの言葉はきっと、そのときのわたしは気づけなかったけど、今のわたしと同じ気持ちだったということ。

きっと、今日の「○○銀行に借りなさい」という言葉以外にも、父の気持ちが隠れた言葉が、きっとたくさんあった。わたしが気づけなかっただけで、きっとたくさん。

父が生きている間に気づけていたら、わたしはちゃんと感謝の言葉が言えたのかな。そう思うと、少し悔しい。

これから先、またこうやって、そのときの自分と重ねて、父の言葉を思い出しながら、父の気持ちを知っていくんだろうと思う。

そして、これを記事に書こうと思ってから、気づいた。

今日、1月19日は、父の誕生日だ。生きていれば、79歳。

79歳だなんて、中途半端だな。しょうがない。来年も記事を書くよ。その1年でまた、何か気づけているといいな。

「母への合図と 最期の瞬間 〜胃癌と向き合った父の記録〜」の記事の最後に書いたように、きっと父は、ずっとわたしのお手本なんだと思う。

エッセイ08:「朝ごはんしらべの呪縛」の見出し画像
朝ごはんしらべの呪縛

わたしは、朝ごはんをしっかり食べる派である。

卵か肉のどちらか1品、野菜4〜5種類と、果物1〜2種類を使うのが毎日の目標。これに加えて、パン、ヨーグルト、牛乳。これが基本的なメニューで、気分とその日の材料によって、ちょっと変化する。ミキサーでガーッとバナナミルクを作ったり、牛乳をやめて粉末のカップスープにしたり、ごはんがたくさん余っていたらオニギリにしたり。

朝ごはんって、学生のときは「いかにおなかを鳴らさずに午前中の授業を乗り切るか」という意味で、重要だった。

そして、朝の快便のためでもある。しっかりと良い便を出して、1日を始める。これ、大事。しっかり覚えておくように。テストに出ます。

そんなわたしも、実は娘が小学校にあがるまで、朝ごはんはパンに何か乗せる程度、天空の城ラピュタに出てくるパズー的な感じであった。あの目玉焼きが乗った食パン、おいしそうだよね。わたしだったら、パンと目玉焼きは一緒にガブっとかじるけどね。マヨネーズを間に塗るのは必須だけどね。いや、なんの話をしてるんだい。

じゃあ、いつからちゃんと食べるようになったのか。このしょぼい朝ごはん (パズーごめん) を変えるキッカケとなった事柄は、今でもはっきりと覚えている。

小学校の「朝ごはんしらべ」である。

これは、おそらく学習指導要領に食育が盛り込まれたころからで、それがいつからなのかはわからないけれど、娘が小学校にあがったときには、すでに食育に力を入れられていた。

娘が1年生になり、学校から配られた「朝ごはんをしっかり食べましょう」というおたよりには、栄養バランスの良い朝ごはんの例が載っていたが、当時は「朝からこんなに食べられないよ。時間もないし」と思っていた。

しかし、学校側もよくわかっている。こんな紙っぺら1枚配ったところで、改善する家庭がどれだけあるのかということを。そこで「朝ごはんしらべ」の登場である。

おそらく全国的な調査をして、県別に実態を把握でもしているんだろうと思う。親に向けて「いつも食べている朝ごはんを書いてください」という手紙が配られた。しょぼいパズーの朝ごはんを書いてもいいんだろうかとちょっと迷ったが、毎日食べているわけでもない果物を、あたかも毎日食べているかのように付け加えてみたりした。

だって、果物って高いんだもん。バナナを時々買っていたから、嘘ではないよね? 果物なんて、そんな毎日は買えないよと当時は思っていた。今は買える。あの頃よりちょっと裕福になった。ちょっとだけ。

しかし、そんな手紙だけで済めば良かったが、そりゃあね、保護者が毎日食べていない果物を付け加えちゃうことなんて、学校側はお見通しってもんだ。

そこでだ。子どもへの「抜き打ち朝ごはんしらべ」である。

これはヤバい。相当ヤバい。何がヤバいって、しょぼいパズーの朝ごはんのときでも、そのまんま、色もつけずに書かれてしまうからだ。子どもは正直。うん、良いことだ。良いことだけども。

でもさ、料理名なんてなくて曖昧なおかずもたくさんあるし、下手したら毎日「野菜と肉 炒めたやつ」になっちゃうし、「ハム」って書かれて「いや、ハムって言うとペラッペラのを想像しちゃうでしょ? これは厚切りハムステーキなのよ」と言ったところで、子どもはキョトンだし。

もう腹くくるしかない。ちゃんとごまかさずに作ろう。栄養バランスを考えて、朝ごはんしらべで花まるもらったろーじゃないのと奮起してから16年、今に至るというわけだ。

抜き打ち朝ごはんしらべは頻繁にあるわけではなかったが、いつあるかわからないと思うと、毎日ちゃんとしようと思うようになり、慣れてくると、ちゃんと食べないとおなかが減っちゃう、力が出なけりゃ、うん○も出ない……となるので、ちゃんと作るのも、朝早く食べるのも、苦ではなくなっていった。

というわけで、今回 言いたいのはこれだ。

小学校にあがる前のお子さんを育てているあなた、小学校には朝ごはんしらべがあることを頭に入れておくこと。

できれば、栄養バランスの良い朝ごはんの練習を、今からしておくこと。

それから、分厚いハムを朝ごはんに出すときは「これはハムじゃないから、厚切りハムステーキだから」の一言を添えて。

現場からは以上です。

(全国的に朝ごはんしらべがあるかのように書いているけども、自治体や学校によってはないかもしれないよ。なかったらごめんね、許して)

エッセイ07:「子育ては楽しいですか?」の見出し画像
子育ては楽しいですか?

最初に1つ、断っておきたいことがある。

この記事は、雑記として載せるか、「記憶と記録」の記事(#のついている記事)として載せるか、正直ちょっと迷った(※note公開時の話)。

自分の体験談に加えて、そのとき自分がどう考えたか、どう行動したかを残しておきたいと思うことについては「記憶と記録」として載せたいのだけれど、今回の話はもっと漠然としていて、だけどすごく大きなテーマであって、「これは単なる個人の見解です」という注釈を至るところに付けなければならないんじゃないかと思うぐらい、勝手に考えて解釈して書いたものなのだ。

保育士の資格なんて、少しもあてにならないぐらい、単なる主婦の勝手な妄想、戯れ言とでもとらえてくれればいいと思う。

ちなみに、いつものことだが、長文である。雑記といえど、やっぱりそれは変わらないので、なにとぞよろしく。気が向いたら、最後まで読んでいってね。

「子育ては楽しいですか?」

その質問に、「楽しいです!」と自信を持って即答できる人が、どれぐらい いるのだろうか。

我が子が小さかったころに同じ質問をされたとしたら、わたしは「大変です!」と即答したと思う。「楽しい」よりも「大変」のほうが、はるかに勝っていたからである。

お猿さんみたいな、生まれたての小さな小さな子どもを自分の腕に抱いたとき、わたしが真っ先に思ったことは、「この子を死なせてはならない」ということだった。

きちんとおっぱいを飲ませて、安心安全なごはんを食べさせて、毎日良いウンチを出させて、気持ちよく眠らせてあげて、たくさんの危険なことから守っていかなければならない。

理解ができる年齢になったら、交通ルールを始め、マナーや人を思いやる気持ち、困ったときにどう対応していくかなど、いろんなことを教えていかないといけない。伝えていかないといけない。この世の中は、危険で理不尽なことでいっぱいなんだから。

ひとりの人間を育てるということは、生かすこと。生かし続けるということ。

一緒に生きて、いつかひとりで生きていけるように、心と身体を作っていくということ。

そんな大変で重要な任務を、これから数十年、自分が背負っていくんだということ、どれぐらいの人がその覚悟を持って子どもを作っているだろうか。

子どもが生まれると、それまでの生活が一変する。

新生児 (生まれたて〜生後1ヶ月まで) の赤ちゃんのいる生活が、どういうものなのか。

2時間ごとにお腹を空かせて泣く。昼夜問わず。大人と一緒に夜まとめて寝てくれることなんて、数ヶ月先の話。

オムツ替えは1日に約20回。新生児用の100枚ぐらい入っているオムツパックも、1週間を待たずしてなくなってしまう。ウンチは1日5〜10回。オムツ替えをした直後にまたウンチをすることもよくあるし、オムツ替えの最中でさえ、次のウンチをすることもよくある。おっぱいをあげて、ウンチオムツを替え、寝かそうとしてもなかなか寝ずに、そうこうしているうちに、またお腹を空かせて泣くなんてこともある。

抱っこで寝かせることができても、背中にセンサーが付いているかのように、布団に下ろすと起きてしまう。また抱っこして寝かせる。下ろそうとする。起きてしまう。抱っこ寝。下ろす。起きる……このループである。

たとえば、おくるみや毛布にくるんだ状態で抱っこ寝させると、下ろすときの振動が和らぐので下ろしたときに起きにくいとか、添い寝おっぱいをして寝かせるとそのまま寝てくれるとか、おしゃぶりに慣れさせるとくわえただけで寝てしまうとか、そういうコツを掴んだのも、ずっとあとのことだった。

とにかく赤ちゃんにつきっきり。昼も夜も。

こんな状態で、洗濯・料理など家事をする時間があるだろうか。自分がごはんを食べる時間があるだろうか。

わたしは、抱っこしておっぱいをあげながら、パンやきゅうりをかじる生活だった。おっぱいを出すために、水分と栄養を取らないといけないのはわかっていたが、そんな余裕は少しもなかった。洗濯も掃除もできやしない。首がすわり、おんぶ紐が使えるようになるとグッと楽になるが、それはまた数ヶ月先の話。首がすわるまでの3〜4か月、ずっとそんな生活だった。

わたしが倒れてはいけない、この子を死なせてはいけない、生かしていかなければと、必死だった。

ちなみに、決してシングルマザーではない。このときも、健康で働き盛りの旦那がいた。

娘が生まれたころ、1・2階縦割りのアパートに住んでいた。1階にリビングと台所・風呂・トイレ、2階に6畳2部屋というテラスハウスだ。

そのころ、旦那は週休2日、平日は毎日出社するという、普通のサラリーマンだった。給料も決して高くはない。会社に迷惑をかけたら、給料が下がってしまうかもしれない。寝不足で仕事をさせるわけにはいかない。当然のように、そう思っていた。

だから、娘を出産して退院した日の夜、旦那に「わたしは下で寝るから、気にせず上で寝ていいよ」と言ってしまった。

これが、わたしの人生の中でいちばんの失敗で、大きな大きな間違いだった。

親になってまず最初に訪れる、この大変な数ヶ月を、わたしひとりで背負うと、わたし自身が宣言してしまったのだ。

ふすま一枚へだてた隣の部屋というわけではなく、1階と2階に区切られた空間。娘が夜中にいくら泣き続けても、旦那は降りてこなかった。

そうやって子育てをスタートしてしまったことで、昔ながらの昭和の家庭のあり方と同じ意識を、旦那に植え付けてしまった。

父親は外で働きお金を稼ぐ。家事・育児は母親がすべきもので、父親は母親が困ったときに少し手を貸せばいい、と思わせてしまった。

でも、間違っていた。

あの退院してきた夜に、1階で3人一緒に寝て、たとえ旦那が寝不足になろうとも、2時間ごとに起きる生活を一緒にすればよかった。子どもを生かす大変さを、共有すればよかった。

そうしていたら、わたしも旦那も、結婚生活も、今と全然違ったものになっていたのではないかと思う。

わたしが短大の保育科に通って勉強していたときに、よく考えていたことがある。なぜ「保育」を中学や高校の必修科目にしないのか、と。

当然、保健体育の授業で少し習った記憶はある。だけど、そんな簡単な話をしているのではない。年間で数時間じゃ、全然たりない。中学3年間、高校3年間、みっちり授業してもいいぐらいだ。

子どもを産み、数十年かけて育てていくこと。生かしていく、ひとりの人間の命を預かるということ。重要な任務を背負うという大きな覚悟を持って、子どもを作るべきだということを学んでほしい。

でも、こんなことを学生のうちから知ってしまったら、子どもを作りたくなくなるんじゃないの?と思うかもしれない。確かにそうかもしれない。

それでも、親になるために、すごく大事なことなのだと思う。

そして、生まれたての赤ちゃんがどういうものなのか。どういう成長過程を経て、大きくなっていくのか。

日々、赤ちゃんはどんどん変わっていく。その都度、何をしてあげたらいいか、何に気をつけなければいけないか。その子の成長に合わせて親の関わり方も変えていかなくてはならない。

それを知識として持っているだけで、心構えと対応の仕方が大きく変わってくると思う。

大変なことには変わりないが、親としてできること、すべきことを自分の知識の中から全力で探し、その子にはどの方法が良いかを試すことができるようになる。必死で子育てに取り組む。知識はその手助けになると思う。

だから、子どもを作る前に、赤ちゃんについて、子育てについて、たくさん勉強しておいてほしい。

それは、母親になる女子だけではなく、父親になる男子も一緒に。中学や高校で必修科目にしてほしいと思う一番の理由は、そこなのだ。

父親が、きちんと父親になるために。

長くなるが、最後にもう1つ。

決して、子どもを「ひとりで育てられる」と思わないでほしい。まわりを頼っていい。赤ちゃんと母親の健康のために、頼るべきことであって、頼るのは当たり前のことなんだと、知っていてほしい。

まずは一番近くにいる、旦那様に。そして、可能であれば、ご両親に。

難しいようであれば、友人でも、元職場の先輩でも、近所のおばちゃんでも、公民館でやっている親子の集いに来る人たちでも、市役所の相談窓口でも、SNSでも。

「しんどいです」、「どうしたらいいかわからないです」と、声をあげることは恥ずかしいことなんかじゃない。無理だと思うときは、誰かに助けを求めてほしいと思う。

そして、子育てがどんなに大変でも、楽しいと思えなくても、どうか自分の子どもを嫌いにならないでほしい。

悪いのは子どもではない。辛くて大変な子育てをしなければならない、その環境なのだ。

いつか、子どもが成人して巣立ち、ああ、頑張ってこの子を育てて良かったと思えるときが、きっと来るから。

世の中の、小さい子どもを抱えるお父さん、お母さん。

それから、これから結婚して子どもを育てていくであろう男子、女子。

「子育ては楽しいですか?」と聞かれて、「楽しいです!」と答えられなくてもいい。

いつか「楽しかったです!」と自信を持って言えますように。

※タイトル画の写真ですが、息子から「赤ちゃんのときの写真は好きに使っていい」とお許しをもらい、載せています。

エッセイ05:「息子の大学生チャレンジ」の見出し画像
息子の大学生チャレンジ

以前、息子が大学生になるまでの話を書きましたが、今日はその続きです。

はぁ?そんなもん読んでねえよという方は、これを機に、ぜひ下の記事を読んでみては?

大丈夫、損はさせませんよ?(怪しい勧誘)

息子は4月から音大生になりましたが、東京の大学なので緊急事態宣言が出た影響を受け、座学のみオンライン授業になりました。

音大ですのでやはり合奏・合唱の授業、トランペット・ピアノのレッスンは対面でないと進まないんですよね。心配ではありますけどもね。

でも、そこは大学側もできる限りの対策をしてくれていて、合奏や合唱は対面で授業を受けるグループと、オンラインでそれを見るグループに分かれて、交替で授業をおこなってくれているそうです。

見てるだけって、もどかしいよね。見てるグループも家で一緒に歌ってもいいよね? わたしも一緒に歌っていいよね?(迷惑)

トランペットとピアノのレッスンは、充分に感染対策をしながら通常どおりのペースでおこなってくれているとのことで、中止にならなくて良かった。お年を召した先生方も多くいらっしゃる中、本当にありがたいです。

中学・高校は音楽教室のレンタルルームや近所の土手で練習していた息子ですが、音大に入ったら練習室が使い放題じゃん、やったね!と思っていたのに、なんと昼間は希望者が多すぎて予約が取れないとのこと。

空きコマに「ちょっと練習してくるわ~」ってことがなかなかできないようで。せっかく立派な練習室があるのに~、なんでよ~。

ということで、息子は、希望者の少ない1限前の1時間・5限あとの1時間という、練習室の使用時間ギリギリのところを狙って、練習室に通っています。

高校時代に鍛えられたので早起きは得意な息子ですが、勘弁してくれ、わたしは得意じゃないんだよ。はぁ……4時半起き、つら……。

さて、大学生活はそんな感じですが、上の記事に書いたとおり、母校の高校はマンモス吹奏楽部のため、定期演奏会はOB・OGがお手伝いをするんですね。

お手伝いというか、むしろ主催? 高校卒業と同時に「OB会」というものに加入します。

就職した子や遠い大学に進学して引っ越しした子もいるので、OB会の参加はおそらく希望者のみですが、息子は当然のようにOB会に加入し、早速5月の定期演奏会のお手伝いをしてきました。

そして、そのOB会、定演のお手伝いだけではなく、「〇〇高校吹奏楽部OB」としてバンドを持っていて、吹奏楽コンクールの一般の部に出場しているのです。

もしかしたらとは思っていたけど、息子が「コンクールに出る」と。

高校3年間、選抜55人を選ぶオーディションで一度も受かることができなかった息子。OBバンドに入る人は少ないらしく、なんと即レギュラーだそうです。あんなに望んでいたのに叶わなかった座奏のコンクールに、こういう形でね。なんとなく、ちょっと複雑です。

それにしても、いつもヒリヒリする環境に自分を置きたいのか、もっと高みを目指したいのか、単に合奏が大好きなのか ……

まぁたぶん最後のやつかな、とにかくみんなで音を合わせる機会を少しでも多く…という感じではないかと思います。

いつでもチャレンジャーな息子が羨ましい限り。

精一杯、楽しんで頑張れ。

エッセイ04:「情熱と根性とその先へ続く道」の見出し画像
情熱と根性と その先へ続く道
〜息子とトランペットの記憶〜

1. 連帯責任と託された高い音

2021年3月12日、息子が高校を卒業した。4月1日の今日、音大生になる。

4つ違いの姉がエレクトーンを習っていたときも、姉が金管クラブでトランペットを吹いていたときも、息子は音楽に対してほとんど興味を示さなかった。

それなのに、5年生のとき、急に「金管クラブに入りたい」と言い出した。理由は「トランペット、目立ってカッコいいから」だ。

当時、楽譜もろくに読めなかった息子は、楽譜にカタカナで音階を書いていた。

土日に学校のトランペットを持ち帰って練習していいことになっていたが、マンションなので家で吹くと苦情が来る。近くの荒川の土手へ吹きに行くことも当時は思いつかなかったのであまり上達せず、6年生の学校行事でソロパートを任されたときも、全然高い音が出なくてプピーッと謎の音を鳴らして終わった。

金管クラブの他の保護者の視線が痛かった。

中学校に入って部活を決めるとき、剣道部と吹奏楽部、少しだけ迷って「やっぱり吹部にする」と言って決めた。

息子が通うことになる中学の吹奏楽部は顧問の先生が厳しくて、休みがほとんどないという噂を息子も耳にしていたが、それを承知の上で吹奏楽部に入部することにしたわけだ。

吹奏楽部は人気がないのか、3学年合わせても30人ぐらいで、トランペットは1学年1人だけ、計3人しかいなかった。ファースト、セカンド、サード、3人が違うメロディを吹くので、責任重大である。

顧問の女性の先生は噂どおり厳しかった。いや、厳しいと一言で言うと全然違う気がする。とにかく嫌味たっぷりの言葉でネチネチと叱る先生だった。

うまく吹けない子がいると「連帯責任だ」と言い、同学年を集めて「彼のどこが悪いのかを話し合え」と言った。

どこが悪いかって? みんな部活中にダラダラと遊んでるわけじゃない。一生懸命練習している。先生が納得するレベルで吹くことができない理由を、中学生同士の話し合いで見つけられるものなのか?

そんなことは全く意味のないものに感じた。どうしたらうまくなれるのかという部分など隅に追いやられたまま、ただただ みんなに「ちゃんと練習してよ」と責められ、仲の良かった友達からのきつい言葉を浴びるだけの時間。

結果、「すみませんでした。もっと集中して練習します」などという表面的ですごく当たり前な答えを持って、先生に頭を下げ、許してもらうということを何度も繰り返していた。

それが原因で、最後のコンクール目前で退部した子もいた。あまり上手でない息子が槍玉にあげられることも、少なくはなかった。

中3の最後のコンクールが近づくと、帰宅するなり頭から布団をかぶり、声をあげて泣くことが何度もあった。コンクールでレ・ミゼラブルを演奏するのだが、盛り上がる場面で重要な高い音が出ないと言う。

4月の保護者会で、わたしは先生から「県大会に進めるかどうかは、○○君にかかっています」と言われた。

なんてことだ、失敗したら確実に部員全員とその親たちに恨まれる。この先生は、それを堂々と中3の息子に背負わせようとしている。失敗すれば、息子は一生残る傷を負うわけだ。小6のときのソロのプピーッという音が思い起こされる。

内心、全然納得はいかなかったが、その高い音が出ないことは事実。出来る限りの努力をするしかなかった。わたしができるのは、お金を出すことだけだと思った。

コンクールまでの数か月、近くの音楽教室で音大出身の先生のレッスンを受けることにした。それも月にたったの3回しか受けられない。レッスン以外の日は、部活が終わり次第、バスに飛び乗り、音楽教室のレンタルルームを借りて、閉店ギリギリまで練習をしていた。

コンクールに間に合わせなければいけない、あの高い音を出さなければならない、ただそれだけだった。

わたしの頭の中では、SEKAI NO OWARIの「サザンカ」という曲がずっと流れていた。「誰よりも不安で、誰よりも泣いて、誰よりもキミは立ち上がってきた」…… 息子の努力はわたしが知っているけれど、この歌のラストのように、いつか報われるときが来てほしいと願いながら。

2. 先生の選択と涙のコンクール

4か月ほどそんな生活を続け、息子は焦る先生に毎日怒鳴られ、時には連帯責任という名の意味のないミーティングで仲間に責められ、布団をかぶって泣くということが増えてきた。

今思えば、そんな苦しい毎日だったにも関わらず、息子が部活をやめたいと言ったことは、3年間で一度もなかった。

コンクールの数日前のこと、ホール練習がおこなわれた。本番の会場ではないが、市民センターのようなホールを借りて、音の響き方を確認しながら練習をするのだ。

そのとき、先生に言われたらしい。「もう時間切れです。他のパートに振り分けます」と。

ずっと練習していた高い音は、時々出るというレベルまで来ていたが、かすれてしまうことも多く、先生には「そんな不安定な音で、一か八かの賭けはできない」と言われたらしい。

息子は1オクターブ下でその音を出すよう言われ、高い音はサックスやクラリネットの子が吹くことになった。

なんて屈辱的なことだろうと思ったが、こればっかりは仕方がない。間に合わなかった。それは事実だ。

帰ってきていつものように布団をかぶった息子は、それまでで一番大きな声を出して泣きじゃくった。

「お母さん、ごめん。たくさんお金を出したくれたのに、たくさん応援してくれたのに、間に合わなかった」とわたしに謝った。息子の努力に比べたら、わたしのお金や応援なんて。

先生の選択は、顧問としては間違っていなかったのだろう。まず地区大会を突破しなければならないのだから、仕方がなかった。

わたしは「地区大会を抜けたら県大会がある。その先に西関東大会がある。今回は吹けないけど、次はきっと吹ける。諦めないで練習を続けよう」と息子に声をかけた。

そうでも言わないと、これまでギリギリの精神状態で必死に頑張ってきたから、このコンクール前の時期にポキッと折れて立ち直れなくなるような気がした。

なんとか前を向いて、次の目標に向かって… と、わたしも息子も必死だった。/p>

しかし、結果は惜敗。

先生は「今まででいちばん良い演奏ができた」と子どもたちをねぎらったが、地区大会を通過できなければ意味がない。息子からあの音をとりあげて挑んだにも関わらず、地区大会敗退となったわけだ。

3. 次の目標と謎のコネ

転機は中3の夏、コンクールが終わって志望校を決めるときだった。急に「全国大会に行ける吹奏楽部でトランペットを吹きたい」と言い出した。

あんなにみんなから下手だと責められ、泣きじゃくるほど辛くて、納得のいく音を出すことができなかったのに……。

でも、小5からの5年間で結果を出すことができなかったことは、きっと彼にとってすごく心残りなんだろうな、とことんやりたいようにやらせてあげよう、わたしはそう思った。

たとえ最終的に結果が出なくても、息子が「これでよし!終わり!」と思うまで、見届けようと。

全国大会に出場している吹奏楽部がある高校を調べたところ、県内の公立で音楽コースがあるところを見つけた。しかし、かなり遠い。

見学に行ったら、息子は「この高校に行きたい。音楽をもっと勉強したい。ここに決める」と力強く言った。片道2時間。我が家は自家用車がないので、「駅までのバスがない時間も送迎はできないよ? 朝練に間に合うようにするには朝5時ぐらいに家を出ることになるよ? 続けられる?」と何度も確認したが、息子の答えが揺らぐことはなかった。

行きたい高校を決めた息子は、顧問の先生に報告へ行った。先生から返ってきた言葉は「本気で音大へ行くつもりなの? 将来何になりたいの?」だ。

「音楽コースに行ったら、絶対に音大へ行かないといけないものなの? 高校に行っていろいろ勉強してから、他の道を選んじゃダメなの?」と、息子もわたしも困惑した。中3の夏の時点でもう職業を選ばなきゃいけないなんて……。そんな一本道しかないわけがないと、わたしは思った。

先生に何度も問い詰められ、大学も職業も急に決めなきゃいけなくなった息子は、涙目になりながらパソコンに向かって「音大に行った人がどんな職業につくか」を調べ始めた。

わたしには違和感しかなかった。誰だって、人生の道は一本道ではなく、何度も分岐点があっていいはずだ。「あなたの将来はパソコンの中にはないよ。自分の目で見てから決めるものだよ」とわたしは息子に伝えた。

しかし、先生は納得してくれなかった。

先生の威圧的な質問攻めに負けて、息子が自分の意見を言うことができない様子が目に浮かぶ。わたしは「仕方ない、出番だな」と重い腰をあげ、担任の先生との三者面談とは別に、顧問との二者面談を申し込んだ。

上に書いたような、わたしの意見をハッキリと言うことには成功したものの、先生は「音大はそんなもんじゃないんですよ」とバカにしたように否定した。

先生が何を言いたいかを汲み取るのに苦労したが、要は「あの学校の音楽コースを受験する子は、みんな音大に行くつもりでいる」「将来どんな職業につきたいかもわからないのに、あの学校の音楽コースに行くなんて」ということと、「音楽の世界はコネで成り立っているから、音大出身の先生の個人レッスンを受けないと、絶対に合格できない」「あの高校に行きたいなら、わたしの顔で話を通してあげる」「わたしなら音大の先生を紹介してあげられる」ということだったようだ。

正直、そんなわけあるかーと思った。だって公立高校なのだから、内申書も学科テストも点数化されるはず。実技試験の出来が多少悪くても合格できるぐらいの評定値と偏差値は、充分に持っている。

わたしは「この人、自分のメンツが大事なんだ。要は『わたしの顔を潰すな』ってことだ」と感じた。

当然わたしは反論した。音大出身の先生のレッスンを受けないとダメだという話については、その高校が受験生対象に6回の体験レッスンをやっているので、そのチラシを見せた。「これに全部出るつもりです。吹奏楽部顧問の先生のレッスンを1対1で受けられます。それで大丈夫でしょう?」と言った。しかし、先生は引かない。「わたしが手を回してあげるけど?」というようなことを遠回しにずっと言っている。

1時間半ぐらい噛み合わないやりとりをして、「こりゃ無理だ、決着はつかない」と思ったわたしは、「じゃあ、もうそれでいいです」と二者面談を閉めた。「仕方ない、出番だ」と意気込んでボスに立ち向かっていったはずのに、なんなく撃沈。

帰宅後、やはり腑に落ちなくて、わたしはこの二者面談について、すぐに担任の先生に報告した。体育担当の男勝りなベテランの女性の先生だ。わたしは「こんなことを言われたんですけど、本当にそうなんでしょうか。コネがないと、合格できないんでしょうか」と聞いた。

そうしたら担任の先生は、キッパリと「公立ですし、そんなことはありませんよ。学科も評定も良いので、よっぽど悪い態度だったり実技が全然できなかったりしなければ、大丈夫。充分に練習をして挑みましょう」と言ってくれた。

このあと、実際、顧問の先生が高校の先生へ働きかけたかどうかはわからない。しかし、息子が高校の学校説明会に行った翌日、先生から「なんでわたしのところに報告に来ないの?」と恩着せがましく言われたそうなので、なんらかの連絡はしてくれたのだろうと思う。

結果として息子は無事に合格することができたのだが、あのときの先生の働きかけのおかげで合格できた、あれがなければ合格できなかったとは、決して思わない。親バカの勝手な解釈かもしれないけれど、息子が頑張ったから合格できたのだ。

卒業間近の3月、毎年恒例の部活懇親会がおこなわれた。先生と3年生の母親が集まり、感謝の言葉を述べたり思い出を語ったりする場なのだが、わたしは非常に居心地が悪かった。

酔っぱらって調子に乗った1人の母親が「せんせ~、子どもたちの良いところを1人ずつお願いします~」などと言い出した。息子はあれほど毎日叱られてたんだから、きっと先生も言葉に困るだろうにと思った。

要望どおりに先生が「○○さんは個人練習を真面目にしていて…」とか「○○さんはエンターテイナーでソロをやらせたら抜群…」とか1人ずつ褒めまくる中、息子の番になった。

先生は「○○くんの良いところは… 」と少し言葉を詰まらせたあと、「情熱と根性です」と言った。

「えっ、それだけ?」という空気が流れ失笑が起こったが、わたしはそれで充分だと思った。

あんな大変な3年間を過ごしながらも、まだ上を目指し、これから全国大会レベルの吹奏楽部に入るんだ。まさに「情熱と根性」。息子にぴったりの言葉ではないか。続けることに意味がある。いつか頂点に立ってみんなを見返す日が来るんだから見てろよ、心の中でそう思っていた。

4. てっぺんからの景色と報われた2小節

全国大会に毎年出場するという吹奏楽部は、本当にいろんなことがケタ違いだった。

部員数は約270人、トランペットだけでも3学年合わせて30人以上いる。いろんな中学校からこの吹奏楽部に入りたくて入学してきていて、息子の片道2時間なんて、それほど遠いほうではなかった。もっと遠くから通っている子もいたし、この学校に通うために一家で近くに引っ越してきた人もいると聞いた。

部員約270人は、吹奏楽コンクールに出る選抜55人、マーチングコンテストに出るマーチングチーム81人、それ以外の演奏会に出るコンサートチーム、3つに分かれていた。

当然、息子は選抜55人の枠を狙ったわけだが、中学のときに全国大会出場経験のある子もいて、中学で地区大会敗退という戦歴の息子とはスタートラインがかなり違うように思えた。

それでも、毎年選抜オーディションに果敢にチャレンジしていた息子は、結局55人の中に入ることはできなかったが、1~2年はマーチングチームに入り、全国大会で金賞を取り、中3のときに夢見た「全国1位」からの景色を見ることができた。本当に充実した2年間だったと思う。

なにより毎日が楽しく、一度も休みたい、やめたいと言ったことはなかったし、朝4時半に起床、5時過ぎに家を出て、22~23時頃に帰宅する生活を2年、よく頑張った。

ついでに言うと、わたしは毎日3時半起床、弁当と朝食を作って息子を送り出し、息子が帰宅をして風呂から出て布団に入るまでを見届ける生活(風呂で確実に寝てしまうので、何度も起こす仕事)、就寝は夜中の1時頃。わたしもよく頑張った!

2020年度、3年生のときはコロナウイルス感染症流行の影響で、吹奏楽コンクールやマーチングコンテストが中止になり、通常の部活動もほとんどできなくなった。

演奏している動画を各自で撮影し、学校で合成して配信するなど、モチベーションが下がらないように先生はいろいろと考えてくれたが、やはり目標がなくて部員の士気は下がっていたように思う。

5月の定期演奏会は延期になり、なんとか11月に生配信をまじえて開催することができた。そして11月に行う予定だった卒業公演は、卒業式を終えたあとの3月の後半、小規模で開催することができ、これでやっと高校の部活が終わり、次へ向かえるのだという安堵の気持ちの中、1つの区切りを迎えた。

コロナのせいで集まることを許されなかった期間、息子は毎日トランペットを持って、荒川の土手へ行って基礎練習をしていた。

定期演奏会のためでもあるが、息子が見据えていたのはその先の音大だったと思う。高校で音楽の授業をたっぷり選択して音楽漬けだった息子は、当然だというように迷うことなく音大を志望した。

無事に指定校推薦をもらうことができ、合格は確実になってからもずっと練習していた。やはり見えているのは定演でも受験でもなく、音大での生活、そしてその先だったように思う。

なんとか開催できた11月の定期演奏会では、中島みゆきさんの「糸」を演奏する際、息子は落ちサビのソロを任された。

ソロには良い思い出がない。小6のプピーッという音と、レミゼの出なかった高い音がよみがえる。わたしは、今度は大丈夫だろうかという不安しかなかった。

本番の日、喘息持ちのわたしは自宅で一人、ドキドキしながら生配信を見ていたが、ソロの場面で立ち上がってスポットライトを浴び、きれいな優しい音でその4小節を吹き終え、安心したように笑顔でおじぎをしたとき、ああ報われたと思った。

たった4小節だったが、今までの小5からの時間は無駄じゃなかった、このためにあった、そう思って涙が止まらなかった。

5. 情熱と根性とその先へ続く道

そして、今日、ネクタイを結ぶのに15分もかかりながら、新しいスーツを着て少し背筋を伸ばし、気持ちあらたに入学式へ向かった息子を見送りながら、わたしは「まだまだ道半ばだな」と思った。

演奏学科に入ったが、どこがゴールだろうか。トランぺッターとして有名になること? どこかの楽団に入って演奏できるようになること? 

きっとずば抜けて上手な人しか、そういうふうにはなれない気がする。

でも、なんでもいい。情熱と根性、それが息子の持ち味。どんなかたちであれ、今までのようにたくさん努力をして、大好きな音楽とトランペットを楽しみながら生きていけますように。

エッセイ03:「母への合図と最期の瞬間」の見出し画像
母への合図と最期の瞬間
〜胃癌と向き合った父の記録〜

2011.7.10 わたしの役割

父が胃癌だと宣告された。

昨日、実家の近くに住んでいる姉から電話があったのだが、細かい検査はすべてこれからで、手術や治療のスケジュールすら決まっていないとのことだった。

電話口で、姉は 「わたしたち兄弟は親との関わり方がそれぞれ違うんだから、役割がそれぞれ違うんだよ。のりちゃんにはのりちゃんの役割があるから」 と言った。

その意味を、昨日からずっと考えていて、まだ答えが見つからない。

看護士であり、実家の近くに住んでいる姉。 8歳下で頼りないけれど、長男の弟。 そして、親に迷惑をかけながら自分勝手に生きてきた わたし。

わたしにできることは、なんだろう。

わたしの役割とは。

2011.8.19 晩年

父のその後。

父は精密検査を受け、胃癌と確定。8月の初めに胃切除術を受けて、1週間ほど前、無事退院。自宅療養となった。

癌の場所は胃の出口「幽門」にあり、胃を下から2/3ほど切除、十二指腸も少し切除したため、胃と十二指腸をつなぐことができず、小腸とつないだらしい。(そのあたり、聞いたけどちょっと曖昧)

自宅療養となってからは、おかゆなどの流動食で、一度にたくさん食べられないため、6回食からスタート。だんだんと固形に移行していくようだ。「忙しくて出かけられないわよ」と母がもらしていたが、手術前の気を張りつめていた様子から一転、母の安心が見てとれて良かった。

切除した検体検査の結果は悪いものではなかったようで、がん治療の薬投与などはなく、定期検診で様子を見るらしい。

ただ、手術痕は抜糸がまだなのでかなり痛い様子。歩くのもゆっくりゆっくり。でも、68歳の手術後とは思えないほど、自分でなんでもできてしまうと母は驚いていた。

頑張りやの父らしいなと、わたしは思った。

1か月半前、「胃癌の可能性大」と医者に言われたときに、父がまずやったことは仕事のことだった。次の日には会社に行って、癌のことを伝え、部下に取り急ぎの引き継ぎをした。

そして、すぐにノートパソコンを買いに行き、病院でもメールでのやりとりができるように手配した。病室はもちろん個室。母も「おとうさんは貯め込んでるから、お金はあるのよ。好きなようにやらせるわ」と。

予定通り、入院中も仕事をして、自宅に戻ってからも家で仕事をしているようだ。会社通いへと復帰できるかどうかは、今後の経過次第なのでまだわからないけれど、仕事が生き甲斐のようなものだった父のことだから、復帰するような気がする。

死はだんだんと近づいてくる。父は、若いときに晩年をどうやって過ごそうと思っていたのだろうと考える。

年老いて死ぬということは、何かしらの病気を抱え、戦っていかなければならないことをも意味する。

病気をせず老衰で亡くなるひとも、寝たきりとまではいかなくても手足は思うように動かせず、体の自由を奪われたりして、まわりの人に助けられながら亡くなっていくのだろう。

自分が納得のいくように悔いのないように生きられて苦しまずに死ねたら、幸せなんだろうなぁと思う。

寝たきりの祖父の介護を文句を言いながらもずっと頑張っていた祖母は、祖父が亡くなってからすぐにボケてしまった。看護士の姉が甥っ子とともに祖母と同居し、ボケた祖母とバトルしながらも向き合い、脳出血を何度も起こして寝たきりになった祖母の介護を2年ほど続けた。祖母は、最期は肺炎をこじらせて逝ってしまった。

年老いて、意図せず変わっていってしまうこと。それを父も、母も、姉も目の当たりにしている。

わたしは遠くに住んでいることもあって、何も手伝うことはできなかったが、大好きな祖母が、同じ笑顔を振りまきながらもボケていっていることにショックを受けたこと、痩せ細りベッドにぐでっと寝たままの姿を見て、大好きな関西弁で屈託のない笑顔を見せることはもうないんだなと覚悟したこと、そのときのなんともいえない、戻りたくてもどうしようもないことがあるという、やりきれない気持ちを強く覚えている。

父は晩年をどう過ごすだろうか。

やり残したことはないんだろうか。

自分の人生に納得はいっているんだろうか。

わたしはまだ人生の半分くらいまでしか到達していない。子どもが自立して肩の荷が下りたら、わたしに何が残るだろうか。いま「やりたいのに時間がない!」と思っていることはたくさんあるけれど、そのときにできる気力と体があるだろうか、自信がない。

いまでも上手に生きることができなくて後悔ばかりなのに、わたしは晩年を迎えたときに、何を思うだろう。後悔に押しつぶされそうになって、苦しくて早く死にたいと思うだろうか。

やらなくちゃいけないこと、伝えなくちゃいけないことは、たくさんあるのに。

2014.3.11 末期

傲慢な人間に「あなたは傲慢だ」と言うことは、わたしの傲慢だろうか。

気持ちと頭の中がぐちゃぐちゃで、昨日から整理しようと頑張っているけれど、頭の中を巡るのは、批判の言葉ばかり。何を言っても違った捉え方をされそうで、何が言いたいのかわからなくなる。

だけど、ひとつだけ、わたしの中ではっきりしている気持ちがある。娘と息子を、父にはもう会わせられないということだ。

末期癌。

体を蝕み、複数の臓器の機能を奪っていくだけではない。奪うのは、感情のコントロールさえも。

わたしが一番、家族の中では客観的に父を見ているのかもしれない。「病気だから、仕方がない」と割り切って従っていられる母や姉のようにはできないままでいる。

父が、ただの頑固で傲慢な老人にしか見えない。変わってしまった父のひどい態度を許せない自分が情けなくて涙が出る。

周りの人に嫌な思いをさせて、嫌われて、そのことに気がつかずに死んでいって、良い死に方と言えるだろうか。

葬式の時に思い出されるのが傲慢な態度と暴言だけだったら、悲しいじゃないか。死ぬ直前の数ヶ月の印象が強烈すぎて、今までの強く前向きで凛とした父の印象は跡形もなく消え去ってしまうなんて、やりきれないじゃないか。

ひどい言い方だけれど、できることなら尊敬できる父のままでこの世を去っていってほしかった。

「おまえは何もわかっていない」と鼻で笑い、お世話になっている母や姉も、がんセンターで何万という症例を見てきた医師でさえも見下し、「俺は71歳だぞ? 仕事を長年やってきて、物事を整理する能力に長けているんだ」と経験と知識をひけらかし、「なぜ俺の話を聞かず、言うとおりにしないんだ!」と押し付ける父。

わたしがどんな人生を送ってきたか、ずっと見てきたわけじゃないのに、わたしの何がわかるというの?

わたしの人生でどんな選択をするかはわたしが決めることだよ。

お父さん、あなたは神様じゃない。

経験や知識も、もう必要ない。

ただの末期癌患者なんだよ。

2015.9.26 最期の時

ずっとブログを書けずにいた。自分が書いた前の記事を読むと、涙が止まらなかった。新しい記事を書こうとしても、先へ進めなかった。

父が亡くなって、1年と5か月が過ぎようとしている。

父は癌が末期であると告知されてから、自分が死んだあとの様々な手続きを表にまとめ、やらなければいけないこと、連絡しなければならない場所、すべてを母と姉に託した。

それでもお金のことはギリギリまで心配をしていて、亡くなる10日前には筆談で「○○の株を売れ」と指示していた。その頃にはもう自分で体を動かすこともできず、声も出せなくなり、ペンを握るのもやっとだった。記憶も曖昧で、「株は大丈夫。もう売ったよ」と何度言っても、数時間後に同じことを言ってきた。

もう手の施しようがなくなって退院となってからの自宅介護は、相当大変なものだったようだ。

父から母への呼び出しは、父のスマホからLINEで「H」と連絡が入る。Helpの意味だそうだ。それは夜中も15分ごとに続き、母はほとんど眠ることができず、食事もとれず、看護士の姉が仕事の合間に母と交代して、母を眠らせていた。

保育士として忙しくしていたわたしが「父、危篤」と呼ばれたのは父が亡くなる1週間前、そのときには母も姉も限界を超えて頑張っていた。わたしは痰取りもできないし、父はわたしに頼みごとを一切しないので、家事をして母と姉の負担を減らすことしかできなかった。

亡くなる直前の数日間、父は目覚めると「もう死んだかな」と筆談で聞いてくるようになった。母が「ううん、生きてるよ」と答えていたのを何度も目にした。

死ぬということは誰もが初めてのことであって、それを体験した人の体験談など聞けるわけもない。死んだあとに自分がどうなるのかなど予想もつかず、かすかな意識の中、自分がまだ生きているのか もう死んだのかが わからなくなる感覚とはどんなものなのだろうと思っていた。

その日、朝少しテレビを見た父は、ジェスチャーで「テレビ終わり、寝る」と母に伝えたそうで、母は部屋にある父の机に向かい、趣味の書道をしていた。

その頃にはもうスマホすら持てなくなっていた父は、ベッドの端をコンコンと叩いて母を呼んでいた。だから母は常にその音が聞こえる場所にいなくてはならなかったのだ。痛い、寒い、テレビ、電気、カーテン、小さなことでも父は何度も何度も母を呼びつけていた。

父が寝ると言ったので父を母に任せ、わたしと姉は1階のリビングで話をしていた。途中、わたしはなんとなく2階の父の部屋をのぞいたが、父は眠っていて、母は書道に集中していたので、声をかけずに1階に戻った。その数分後だった。母の大きな声が聞こえた。

「なぜ呼んでくれなかったの」と。

父は最期のとき、母を呼ばなかった。ベットの端を叩く力さえ残っていなかったのか。それとも、介護に明け暮れ自分を犠牲にしてきた母の、趣味を楽しむわずかな時間を邪魔したくなかったのか。寝ていたはずの父は、目を開いてまっすぐ天井を見つめたままだった。

告別式、母は喪主の挨拶で「結婚して50年、主人はなんでもひとりで決めてきました。病気や治療のことも相談などしてくれず、愚痴も言わずひとりで戦ってきました。でも、最後の1か月、わたしや子どもたちに介護の時間を与えてくれました。愚痴を言い、甘え、頼りにしてくれました」と言った。

その言葉で、この1か月は大変だったけれど、残された母と姉にとって、とても大切な時間だったのだと改めて感じることができた。

父が残していったものは良くも悪くもたくさんあって、わたしはどちらかというと母にそっくりな性格なので、父を理解できない部分が多い。

だけど今思うのは、胃癌が見つかってからも父は父らしく、病気と真面目に向き合い、自分を諦めることなく残された時間に全力を尽くした。そのことは、この先わたしが余命宣告されるようなことになったときに、きっと間違いなく素晴らしい手本になるだろうと思う。

わたしは、わたしらしく。

エッセイ02:「古い校舎と永遠の笑い声 〜想い出の場所の記憶〜」の見出し画像
古い校舎と永遠の笑い声
〜想い出の場所の記憶〜

いつものようにベランダで洗濯物を干していて、ふと気がつく。

「校庭から子どもの声がしない」

わたしの住むマンションは、小学校の向かい側にある。上の方の階なので、ベランダから校庭を見渡すことができた。

校庭をぐるりと囲む桜の木。

春は入学してくるキラキラの目をした1年生をたくさんの花びらで迎え、夏は元気に茂った緑でベランダから見える校庭を半分隠してしまうけれど、秋には綺麗な赤や黄色に変わり、たくさんの落ち葉は子どもたちの図工の材料や遊び道具となった。

20分休みになると校庭は子どもたちで埋め尽くされて、わーわーきゃーきゃーと楽しそうな声が聴こえる。体育の時間には、子どもたちの体操のかけ声。夏のプールの授業のときは、拡声器を通して響き渡る先生のかん高い声。

運動会の時期には金管クラブの練習の音。低学年のダンスや6年生の組体操の練習を、双眼鏡片手にこっそりベランダから眺めて、我が子を探していた。

それは、ここに引っ越して来た11年前 (2000年) から、ずっと続いていた景色と音の記憶。

それもこの3月で終わりを迎えた。

昭和48年に今の場所に開校した小学校。耐震工事もできないほどに老朽化し、2年ほど前、別の場所への建て替えにようやくとりかかり、今年度 (2011年) の4月から新校舎での再出発となった。

新校舎は10分ほど離れた場所にあるが、遠いというほどの距離ではない。新しくて広い校舎はとっても気持ちがいいし、なにより老朽化した校舎で過ごすことの不安は解消されたわけだ。

上の娘は3月で卒業してしまい、旧校舎での最後の卒業生となり、新校舎で勉強することはできなかったけれど、下の息子はまだ3年生。迷路みたいで怖いんだよ~と言いつつ、新しいことに向かうのはとても楽しいらしく、わくわくしているようだ。

だけど、わたしは悲しくて仕方がない。

娘が小学校にあがる前から、土日開放していたあの小学校へ遊びに行っていた。

第一子である娘の小学校入学式の日を、あの満開の桜の木の下で迎えた。

低学年の頃は、マンションを出て横断歩道を渡って学校に入るまで、心配でベランダからずっと見ていた。遊びに行くのも学校の校庭でなら安心だった。

学校の役員の仕事は、狭くて暑い図書室で、今では懐かしいボロボロの木の椅子に座ってやったこともあった。

わたしはこの街の出身ではないけれど、想い出がたくさんある。11年って、やっぱり長いと思う。子どもが過ごした時間と同じ分だけ、わたしにも、この目の前に当然のようにずっとあった小学校に愛着があるのだ。

2011年3月11日。東日本大震災。

低学年がそろそろ下校するという時間だった。わたしは役員会があって学校にいた。

今まで経験したことのない、立っていられないほどの揺れ。わたしの立っていた場所の真上にある2階の連絡通路から、はがれた塗装がパラパラと落ちてきて、慌ててその場所から離れた。のちに聞いたが、その通路は亀裂が入り、地震後から使用禁止となったそうだ。

長く続いた最初の揺れ、そして繰り返し来る余震。

子どもたちは教室で机の下に隠れて、静かに先生の指示を待っていた。でも、そこにいた保護者の誰もが思ったと思う。この校舎は大丈夫なんだろうか。崩れて子どもたちを生き埋めにしないだろうか、と。

慌てて集まった保護者で校庭はすぐにいっぱいになった。「安全が確保できるまで、その場でお待ちください」と教頭先生からアナウンスが入り、保護者はみんな不安な表情で、子どもたちが校舎から出てくるのをひたすら待った。一斉下校になったのは、最初の揺れから2時間後のことだった。

数年前、一番古い校舎に耐震工事が入ったときは、古すぎてたいした耐震工事はできなかったと聞いた。

それなのに、あの大地震の日、よくがんばって子どもたちを守ってくれた。もうすぐ壊されてしまう旧校舎。最後の最後まで。長い間、お疲れさまでした…と言いたい。

新校舎での新学期が始まり、ベランダから見えるいつもの門は閉まったまま。子どもたちはいない。いつもの楽しそうな声が聞こえない。あの場所は違うものに変わってしまった。

でも、あの小学校の景色と音の記憶は、わたしの中にずっと残っている気がする。

季節とともに色を変える木々と子どもたちの楽しそうな声が、今でも聞こえてくる気がする。

わたしの中の永遠の景色。永遠の笑い声。何かが変わっていって想い出になるということって、こういうことなのかもれない。

「桜」の写真

小学校の校庭の桜

エッセイ01:「女子の嫌がらせと 越える力」の見出し画像
女子の嫌がらせと 越える力
〜娘の涙の記憶〜

小6の娘のこと(当時2010年)。

先日、娘が学校であるものを盗まれた。あるものとは、「ケロッグ」と呼ばれる「学級通貨」である。

ケロッグという名前は、学級通貨の名前をクラスで募集して学級会で決めた名前だそうだ。発表を1回すると1ケロッグ、自主勉強5ページで1ケロッグ…など、いわばご褒美的なもの。カエルの絵の書いた小さな紙をもらえる。

それを集めていろいろ使えるらしいのだけど、娘が活用しているのは、給食のおかわり。揚げパンなど、人気の給食でしかも数が限られているものは、ケロッグによるオークションが行われるらしい。好きなおかずをオークションで勝ちとるために、娘は「毎日最低1ページ」という自主勉強の宿題を、毎日5ページやってケロッグを集めていた。

そのケロッグを、10枚盗まれたのだ。

娘は自分で「ケロッグ入れ」を作っていた。集めたケロッグがなくならないように、100均で買った小さなジップロックにケロッグを入れ、学校の机の引き出しの奥にしまっておいたとのこと。

それが、朝、学校に行って引き出しの中を見たら、ケロッグ入れのチャックが開いていて、中身が空っぽだったらしい。ケロッグ入れにはもともと11枚入っていて、10枚盗まれ、1枚は引き出しの中に落ちていたそうだ。

そして、娘が先生にそのことを言ったら、先生は「学校に置いて帰るのが悪い。きちんと管理しなさい」と言ったらしい。

娘は「悔しい」と泣いた。「ケロッグ10枚分は、自主勉強50ページ分なんだ」「一生懸命がんばったのに」と。

こういうことは、実は初めてじゃない。2年前から数回あった。

4年生のとき。カラーペンが1本なくなったり、学校に置いて帰る名札が朝なかったり。金曜日に体操服を持って帰ろうとしたら見当たらなくて、下駄箱の上に砂だらけで放置されていたり。

娘は、親のわたしが言うのもなんだが、まじめで成績が良く、先生や親しい友だちからの信頼も厚く、ほめられることが多い。運動はできないが、いわゆる優等生タイプなのだ。その割にマイペースでちょっと抜けているところもある。

だから、物がなくなったときに真っ先に言うのは「ちゃんと片づけたの?」だ。

娘も「うーん、たぶん片づけたと思うんだけど…」という返事の場合が多かった。だから、最初はあまり気にしていなかった。

だけど、頻繁に続くようになってから、娘には気をつけるよう注意をしていた。

まず自分自身がきちんとすることだ。きちんと物を片づけること。そして、片づけたことを自分できちんと覚えていること。

そして決定的なことが起こった。

全員参加のクラブ活動、娘は編み物クラブに入っていて、半年かけてマフラーを編んでいた。そのマフラーが、年度末が近づいた2月初めに盗まれてしまった。

状況を聞くと、クラブ活動の日、手提げバッグの一番奥に入れていて、上から他のものをつっこんでおいたので、うっかり落ちるわけがない。そして、その手提げを机の横にかけていたのを娘はしっかりと覚えていた。昼休みまではあったのに、クラブの時間に持っていこうとしたら、手提げ袋の中のマフラーだけがなかったと言う。

ここで確信した。今までのことも、うっかりではなかったのだと。

当時、担任だったT先生は、定年間際のおばあちゃん先生だった。「古い考えの先生で融通が利かず、すぐに怒る」と噂され、保護者からも生徒からもあまり好かれていない先生だった。その先生に、マフラーのこともそれまでのことも全て話をした。「もしかしたら娘のうっかりなのかもしれないのだけれど」と言葉を添えて。

しかし、T先生はものすごく親身になって聞いてくれ、娘やわたしの代わりに怒りをあらわにしてくれた。一生懸命、他の生徒に聞き込みをしてマフラーを探してくれて、クラスの生徒に「もし悪いことをしてしまった人がいるならば、名乗り出てほしい」と話をしてくれた。

T先生は、わたしや娘に「嫌な思いをさせてごめんなさい」と謝りつつ、犯人探しをすることに対しては「問いつめて、ごめんなさいを言わせたいわけではない。今、止めてあげないと、これからのその子の将来が心配だから」と、盗んだ子のこともとても心配していた。

結局、マフラーも犯人も見つからず、年度末に自分だけ作品がないのは嫌だから…と、娘はがんばって1ヶ月でマフラーを仕上げた。

T先生はその年で転任になってしまったのだけど、「次の先生に注意するように、よく伝えておくから」と言ってくれた。

それから、小さなものがなくなることは5年生でも数回あり、それがうっかりなのか盗られたのかはっきりしない場合は先生に伝えず、娘に「またやられる可能性があるのだから、自分の物の管理はきちんとすること。大事なものは、持って帰れるものなら持って帰ってくること」と注意していた。

しかし、6年生になってそういうことがなかったから、わたしも娘も油断していたのだ。

今回のこと。

「大事なものなのに、置いて帰ったのが悪い」…そう言われたら確かにそうだ。こちらに少しでも非があるのなら、文句は言えないとわたしは思う。以前と同じだ。うっかりなのかもしれないと思うのなら、人を責められはしないのだ。自分で絶対にきちんと管理していたと思えるのなら、先生にそう自信を持って言えばいい。

そうしたら、先生ももっと事の重大さに気づき、対応してくれたのではないかと思う。

T先生の言うように、人の物を盗んで自分の物にすること、人の物を隠して嫌がらせをして楽しむこと、そういうことを平気でできるような人になってしまうかもしれないということを放置してしまうことの重大さ。物を盗られて泣き寝入りしなければならない娘の辛さを見過ごすことの重大さ。

正直、納得いかない部分もある。だけど一番強く思うのは、こういうことを娘自身が乗り越えていかなければならないということ。

きっとこの先も娘はやられ続ける。対応してくれる先生も、してくれない先生もいる。学生時代が終わって社会に出たって、嫌がらせをする人も平気でひどいことを言う人もたくさんいると思う。

それでも、自分に非がないのなら、屈せずに堂々とがんばるしかない。一生懸命がんばることは間違ってはいないのだから。

「悔しい」と泣く娘を前に、わたしもすごく悔しかった。だけど、一緒に泣いて「悔しいね」と言うだけでは、終わりにできない。だから、一生懸命、わたしの思うことを伝えた。

「自主勉強を50ページやったことが消えるわけではない。それは確実に力になっている。たとえば、その盗んだ子が盗んだケロッグで何かを得ても、それはその子の力にはなっていないんだ。悔しいけれど、またがんばればいい。勉強したことが無駄になったわけではないんだから。」

「一生懸命がんばることは決して悪いことじゃない。まじめにがんばっていることを妬んだり、よく思わない人もこの先たくさん出てくるだろうけれど、その人たちを恐れたりすることはない。何も悪いことはしてないんだって堂々としてればいい。」

「悔しいのはわかる。悔しいと泣くのもいい。だけど、泣いてるだけじゃなくて、そのたびにそれを乗り越えなければ。今回のこと、これ以上は何もできないけれど、もしもっと続くようなら……たとえば、もし嫌がらせだけで済まずに直接何かやられたりしたら、一緒に先生に言おう。今度こそちゃんと先生に対応してもらおう。」

わたしは、人の物を盗んで平気でいられる人や、嫌がらせをして良い気分になる人の気持ちが全くわからない。

わたし自身も小学生のときは、今のような陰湿な嫌がらせはないにしても、陰で悪口を言われたりした。だから、どうしてもやられる側目線になってしまうのかもしれない。

正直、娘に伝えたことが正しかったのかなんて、わからない。価値観とかモラルなんて人それぞれだし、しつけは親の価値観やモラルを押しつけることになるのかもしれない。

だけど、わたしが40年近く生きてきて考えられる精一杯の答え。

親に頼り、甘えながらも、自分の力で何度でも立ち上がる子になってほしい。